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追分道標
草津には、東海道・中山道を往来する旅人の道しるべとして親しまれた道標が数多く残っています。江戸寄りの入口、草津川堤防上にある火袋つきの石造道標(1816)、東海道と中山道の分岐点にある火袋つきの石造道標(1816)、東海道と矢橋道の分岐点にある石造道標(1798)、立木神社境内にある道標(1680)などがそうです。 ...
一里塚
一里塚は街道の両側に一里ごとに置かれたもので、東海道では慶長九年に江戸日本橋を起点として整備された。水口町域では今郷・林口・泉の三ケ所に設けられている。旅人のよき目印ともなったが、明治維新後いずれも撤去された。
狛坂磨崖仏
金勝山中の大津市との境界に近いところに、狛坂寺跡と向かい合うかたちで、大きな花崗岩の磨崖面に、高肉に三尊仏を刻みだしています。高さ約6m、幅3.6mの壁面に高さ3メートル、顔幅70cmの阿弥陀如来坐像を中尊として、観音・勢至の両脇侍を刻み、その周囲に12体の仏像が半肉彫りされています。 中央にある阿弥陀如来は、格...
光徳寺
蓮如上人の法難に対して、自ら首を打たせて出させた堅田源兵衛ゆかりの寺。その首と墓所がある。
鏡神社
南北朝時代の建築で「日本書紀」にも記されている朝鮮半島の新羅から製陶技術(渡来文化)を伝えた天日槍を祀る神社です。本殿は三間社流造り、屋根はこけら葺きで、国の重要文化財に指定されています。
水口宿本陣跡
水口本陣は古い家柄で苗字帯刀を許された鵜飼伝左ヱ門が営んでいました。表門は貴人宿泊の格式を表し、瓦葺か冠木門で屋舎は平屋でした。本陣の特色として庭はあるが絶対に石は入れず、必ず裏手に立ち退き口があり、非常の際の脱出口になりました。現在の本陣跡は明治天皇行在所の石碑が建っているだけでその面影はありません。 近くに脇本...
賤ヶ岳
南北に奥琵琶湖と竹生島、東に伊吹山、北に余呉湖を一望できる賤ヶ岳は、琵琶湖八景の一つとして知られています。 1583年(天正11年)、羽柴秀吉と柴田勝家が覇権を争った「賤ヶ岳の戦い」の戦場跡で、戦跡碑、戦没者の碑があります。 また、琵琶湖と余呉湖のふたつの湖の景観と史跡を巡る多彩なハイキングコースが整備されています...
黒田家御廟所
当地の御廟所に祀られている黒田藩の始祖は、佐々木源氏の流れをくむ源宗清(宗満)公であり、近江国伊香郡黒田村に住み、湖北の荘園領主として黒田判官と称された。 宗清公より数えて6代目の高政公の時代に備前邑久郡福岡村に移り住むまでの約200年間は、黒田氏は6代にわたりこの地に居を構えていた。
岡遺跡
奈良時代の役所跡であることがわかっています。溝によって区画された政庁、正倉、舘などの施設が発見され、古代栗太郡の郡衙(郡の役所)として全国に知られました。小槻大社や歴代の首長墓が付近に立地することから、小槻氏の本拠地につくられたといえます。
幻住庵
江戸時代に松尾芭蕉(1644-94)が4カ月間暮らした草庵。京阪電鉄石山寺駅の西にある国分山東斜面の近津尾(ちかつお)神社にあります。芭蕉が、ここでの生活を『幻住庵記(げんじゅうあんき)』に記したことはあまりにも有名です。幻住庵は、芭蕉の門人の1人であった菅沼曲翠(すがぬまきょくすい)(1659-1717)が義仲寺で...
四高桜の碑
萩の浜水泳場の手前の一角に、四高桜という高さ3mほどの石碑があります。これは、昭和16年4月6日、旧制第四高等学校(現在の金沢大学)のボート部員が萩の浜沖で遭難死したのを悼んで建てられた慰霊碑です。「遠くかすむは彦根城 波にくれゆく竹生島 三井の晩鐘音たえて なにすすりなく浜千鳥」の歌詞で有名な琵琶湖哀歌は、この時に作...
釈迦山 百済寺
重厚な石垣に覆われた『山城』の趣が漂う天台宗の寺院。 近江の最古級寺院で、今から1400年の昔、推古14年(606年)に、聖徳太子が百済人のために押立山(771.8m)の中腹に百済国の「龍雲寺」を模して創建された。 龍雲寺と百済寺のご本尊は、同一の巨木から彫られた「同木二体」の十一面観世音菩薩と伝わる。 開闢法要...
石田三成出生地
市の東部、山東町との境界近くにある石田町は、戦国の武将・石田三成(1560-1600)が生まれた町であり、公民館前の石田家跡には、「石田治部少輔(いしだじぶしょうゆう)出生地」と刻まれた顕彰碑が立てられています。また、その付近には、一族と家臣の供養塔が、なだらかな横山を背景に立ち、ここから横山に向けてハイキングコース...
山内一豊公 母の墓
山内一豊の母は、夫盛豊が亡くなった後、法秀院として出家し、次男・一豊らを連れて居を転々としたのち、永禄末年(1569)頃、4人の子どもを連れて宇賀野の長野家に身を寄せたと考えられています。法秀院はつつましく穏やかな性格で、村の子ども達から慕われていたと伝えられています。近所の子どもに裁縫や行儀見習いを教えていましたが、...
北畠具行卿墓
元弘(げんこう)の変(1331)で失脚した北畠具行の墓。徳源院(とくげんいん)(清滝寺)の南700m、丸山(285m)の山頂にあります。 後醍醐(ごだいご)天皇に仕えた具行は、鎌倉幕府打倒の謀議に度々加わり、その中心的存在でしたが笠置(かさぎ)落城の後に幕府方に捕らえられ、鎌倉に護送される身となりました。しかし、...
市辺押磐皇子御陵
近江鉄道市辺駅の南東約1.2kmのところにあります。円墳が2基あり、東方のものが皇子の墓で周囲約50mという大きさです。西方にあるのは、皇子の従人であった悵内佐伯部売輪(とねりさえきべのうるわ)の墓と伝えられています。これは周囲約25mです。 5世紀の中頃、安康(あんこう)天皇が従兄弟である市辺皇子に皇位を譲ろう...
椿山古墳
墳長99mの帆立貝形の前方後円墳で、この形では滋賀県下最大規模。周濠を持っており、栗東市内最大の古墳です。出土品は5世紀前半〜中頃の首長墓で、鉄剣や甲冑などがみつかっています。
鵜川四十八体石仏群
白ひげ浜付近で国道161号線を逸れ旧西近江路を北進すると、草深い山中の墓地に、高さ1.6m、花崗岩の阿弥陀如来像群が見られます。東を向いて静かに並んで座る石仏は、大きさも少しずつ異なり、慈愛に満ちた顔・あどけない顔・ユーモラスな顔など、姿もそれぞれ異なっています。近年までは、室町時代後期に観音寺城(現安土町)城主の佐々...
若宮氏館跡
山内一豊の妻の千代は、若宮喜助友興(わかみやきすけともおき)の子として、弘治三年(1557年)にここで生まれと言われています。永禄九年(1566年)に父友興が戦死し、叔母の夫の不破氏に養われていましたが、その後再び飯村に戻りました。この頃、隣村(宇賀野村)の長野家に身を寄せていた山内一豊母子と出合い、一豊の妻になったさ...
八講堂千体地蔵
山の辺の道沿いにある地蔵。昔八講堂があった場所の付近からたくさん発見された。