毛受兄弟の墓

めんじゅきょうだいのはか

更新日
2021/07/28

    賤ヶ岳の合戦において、大岩山の初戦では柴田勝家の軍が勝利を得ましたが、羽柴秀吉の素早い行動を予測しきれずに、次第に勝家側の敗色が濃くなっていきました。
     勝家は、自ら兵を率いて決戦を挑もうとしましたが、忠臣毛受勝助に諫められ、北ノ圧へ落ち延びて陣を立て直そうとしました。毛受勝肋は兄の茂左衛門とともに勝家の身代りとなって、秀吉軍と戦いました。
     しかし加藤清正「賤ヶ岳の七本槍」をはじめとする秀吉軍の一斉攻撃を受けて、勝助以下全将兵討ち死しました。首実験の結果、すぐに身代りであることがわかり、秀吉をいたく感動させました。勝家はその2日後の4月23日、北の庄の城を包囲され再婚したばかりの夫人、お市の方とともに自刃しました。
     毛受兄弟の忠節は、後の世までも語り継がれ、明治9年(1876)この地を訪れた滋賀県令籠手田安定(こてだやすさだ)(1840-99)によって、林谷山麓に墓が立てられました。朱色の鉄柵で囲われた墓の周囲は整備され、遊歩道が設けられています。

    所在地
    長浜市余呉町新堂
    アクセス
    公共交通機関
    JR北陸本線 「余呉」 下車 バス 15分
    木之本インターから車で15分
    お問い合わせ

    (公社)長浜観光協会

    TEL
    0749-53-2650
    FAX
    0749-53-3161
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