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滋賀たび 2017 春号
滋賀の観光パンフレット『滋賀たび』2017年春号。
滋賀の春を楽しむ旬の情報が盛りだくさんです。
詳しくは、以下よりダウンロードしてご覧ください。
(公社)びわこビジターズビューロー
TEL : 077-511-1530
FAX : 077-526-4393
関連情報
比叡山延暦寺
大津エリア
比叡山に広大な寺域を持つ、天台宗の総本山。平成6年に世界文化遺産に登録されています。奈良時代末期、19歳の最澄(さいちょう)(767-822)が、比叡山に登り草庵(そうあん)を結んだのが始まりです。最澄が中国に留学して天台宗を開宗してからは、弘法大師(こうぼうだいし)の開いた高野山金剛峰寺(こうごうぶじ)とともに、約1200年もの間、日本の宗教界最高の地位に君臨し、この比叡山からのちに日本仏教をささえた円珍(えんちん)(814-891)、円仁(えんにん)(794-864)、慈円(じえん)(1155-1225)、源信(げんしん)(942-1017)、法然(ほうねん)(1133-1212)、親鷲(しんらん)(1173-1262)、一遍(いっぺん)(1239-89)、道元(どうげん)(1200-53)、日蓮(にちれん)(1222-82)などの傑僧(けっそう)を輩出しています。全盛を誇った平安時代末期には、三塔・十六谷・三千坊を数えていたといわれています。この時代に門下の対立が激しくなり、分立した三井寺(園城寺)の寺門に対して、山門と呼ばれています。
杉木立が深く生い茂っている比叡山中の境内は、天台宗修行道場としての威厳に満ちみちた雰囲気が漂い、訪れる者の心を引き締めます。延暦寺は比叡山の山上山下に大別されており、山上には、根本中堂を中心とした東塔、釈迦堂を中心とした西塔、円仁によって開かれた横川の3地区に分かれています。一方、山下になる坂本には、延暦寺の鎮守社(ちんじゅしゃ)だった日吉大社や本坊だった滋賀院などがあります。
戦国時代に織田信長(1534-82)によって、一山焼き討ちに遭いましたが、豊臣秀吉(1536-98)・徳川家康(1541-1616)の手によって復興された諸堂は、数多く国宝・重要文化財の指定を受けており、宝物類も目を見はる物ばかりです。
ドライブウェイ・ケーブル・各バスなどを利用して、山上まで比較的簡単に参詣することができます。根本道場であり、もっとも交通の便のよい東塔だけを拝観する人が多いですが、さらに厳粛な空気が漂う西塔・横川の方へ、東海自然歩道を歩いて参詣するのも深い趣が味わえます。
〈国宝〉根本中堂 宝相華蒔絵経箱 金銅経箱 七条刺納袈裟 刺納衣 伝教大師将来目 録 羯磨金剛目録 天台法華宗年分縁起 六祖恵能伝 伝教大師入唐牒 嵯峨天皇宸翰 光定戒牒
〈重文〉根本中堂廻廊 転法輪堂 戒壇院 瑠璃堂 相輪橖 文殊楼 浄土院拝殿・勅使門山王社 など多数
山王総本宮 日吉大社
大津エリア
全国各地にある3,800余りの「山王(さんのう)さん」の総本宮。比叡山連峰 八王子山(牛尾山・378m)の麓に広がり、延暦寺の門前町坂本の鎮守神。
「山王七社」「山王二十一社」ともいわれ、摂社・末社が多くあります。創祀は古事記に記されるほど古く、地主神である大山咋神(おおやまくいのかみ)とその妻、鴨玉依姫神(かもたまよりひめのかみ)を祀ったのが始まりです。その後、延暦寺の発展とともに整備されました。
境内は、東本宮と西本宮の2区域からなります。東本宮は神体山の八王子山(378m)に鎮座する大山咋神を祀ったものです。山頂付近には金大巌(こがねのおおいわ)と呼ばれる大きな磐座(いわくら)や迫力ある懸造りの奥宮などがあります。
西本宮は大津京遷都にあたって奈良県の三輪山より大己貴神(おおなむちのかみ)を勧請したもので、宇佐神宮の姫神をまつる宇佐宮、加賀国一宮である白山比〓神社から勧請した白山宮などがあります。東本宮・西本宮ともに本殿は日吉造(ひえづくり)といわれる特殊な建築で、国宝です。
このほか、石の橋で重要文化財に指定されたのは珍しいといわれる日吉三橋(ひよしさんきょう)、猿の彫刻がある朱色の西本宮楼門、山王の「山」という文字を表した山王鳥居など、重要文化財が多くあります。ご社殿の大半は織田信長による比叡山焼き討ち以後、江戸時代初期に再建、建立されたものです。
大宮川の渓流が流れる清風の森に、見事な建築美を誇る数多くの社殿が点在し、特に秋は周囲の紅葉に壮麗な社殿が映えてさらに美しい眺めになります。
また、「山王さん」と呼ばれて広く親しまれている例祭(山王祭)は、湖国三大祭の1つです。3月の第1日曜・27日・30日、4月3日・12日から15日に行われ、特に、4月13日の宵宮落し神事は期間中最も勇壮な神事です。
〈国宝〉西本宮本殿 東本宮本殿
〈重文〉西本宮拝殿 東本宮拝殿 摂社樹下宮本殿及び拝殿 摂社宇佐宮本殿及び拝殿 摂社白山宮本殿及び拝殿 摂社牛尾宮本殿及び拝殿 摂社三宮宮本殿及び拝殿 西本宮楼門 日吉三橋 東本宮楼門 山王金銅装御輿
〈史跡・名勝〉日吉大社境内
西教寺
大津エリア
京阪電鉄坂本比叡山口駅の北西約1.5km、比叡山(848.3m)の南東山麓に大きな寺域を持っています。全国に450以上の末寺を持つ天台真盛宗(てんだいしんせいしゅう)の総本山です。寺伝では、聖徳太子(574-622)が創建し、のちに天智天皇(626-671)から西教寺の勅願(ちょくがん)を賜わり、平安時代に延暦寺中興の祖良源(りょうげん)(913-985)が、続いて横川の源信(げんしん)(942-1017)が庵を結んで修行道場としたと伝えられています。その後、長らく荒廃していましたが、室町時代末期に延暦寺で20年間もの修行を積んだ真盛(1443-93)が入寺して再興しました。 当時は、混乱した世相を反映して宗教界全体が大きな転機を迎えていたので、真盛は戒律の厳守と称名念仏(しょうみょうねんぶつ)の励行を唱えました。以来、西教寺は戒律(かいりつ)・念仏(ねんぶつ)の道場となり、現在に至るまで1日も絶えることなく念仏が唱え続けられています。幽玄静寂(ゆうげんせいじゃく)な空気が漂う境内には、念仏と鉦(かね)の音が低く響き渡り、独特の雰囲気が漂います。
荘厳な風格を誇る本堂、伏見城の遺構を移したという客殿、その内部の狩野派(かのうは)による人物・花鳥襖絵(ふすまえ)など、多くの見所があります。また、戦国時代、織田信長(1534-82)による延暦寺焼き討ちで焼失した後、明智光秀(あけちみつひで)(1528-82)が寺の復興に尽力したことから、境内には、光秀一族の墓もあります。
〈重文〉本堂 客殿 木造阿弥陀如来坐像 木造聖観音立像 木造薬師如来坐像 絹本著色当麻蔓茶羅図 絹本著色阿弥陀如来像(2幅) 絹本著色釈迦如来像 絹本著色天台大師像 絹本著色山王諸神像 紙本著色扇面古写経 絹本著色豊臣秀吉像 後土御門天皇宸翰真盛上人号紙本墨書無量義経疏(3巻) 注大般涅槃経巻第八 色紙金銀箔散法華経(8帖) 石灯籠 鰐口 梵鐘
【西教寺】
西教寺には、合計4つの庭園があります。庫裏南側・客殿西側・書院南側・書院北側の庭です。それぞれに趣が異なる庭園で見ごたえがあります。
主なものは庫裏の南側にある枯滝様式の庭園。約2mもある立石を中心に、左右にたくさんの脇石を配置しています。そして、この石組に連なるように沓脱ぎ石、大小の飛び石が非常に豪快に置かれています。全体的に大小のサツキと苔を主体にし、茶庭式露地の感じもします。
また、これとは対照的なのが客殿西側の庭園です。庭の中央に琵琶湖の池泉を置き、中にのぞき石・浮き石・さらに石橋が架けられていて、柔らかい雰囲気です。池の周囲から裏山にかけてツツジ・サツキの刈り込みがあって、奥行きの演出も巧妙です。どちらも安土・桃山時代から江戸時代にかけての作庭といわれています。
建部大社
大津エリア
瀬田の唐橋の東約500m。この社は、近江一の宮といわれ、長い歴史と由緒を持つ全国屈指の古社です。祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)。奈良時代に神崎郡建部郷(かんざきぐんたてべごう)から瀬田大野山(所在不明)山頂に遷され、その後、建部氏によって現在地に遷座されました。 古くから歴代朝廷の尊信が驚く、また武将たちの崇敬も深く集めました。特に平安時代末、源頼朝が平家に捕らえられて伊豆に流される途中、建部大社に立ち寄って源氏再興の祈願をし、見事にその願が叶って以来は、武運来運の神として信仰を集めました。 社殿は、日本武尊を祀る正殿と大己貴命(おおなむちのみこと)を祀る権殿が並び立ち、拝殿左右に未社が並んでいます。社宝としては、平安時代の作で日本武尊の妃といわれる木造女神像があります。境内にある石灯籠とともに重要文化財に指定されています。毎年8月17日に行われる船幸祭(せんこうさい)が有名です。 境内の大野神社は縁結の御利益があります。〈重文〉木造女神坐像 石灯籠
浮御堂(満月寺)
大津エリア
近江八景「堅田の落雁」で名高い浮御堂は、寺名を海門山満月寺という。平安時代、恵心僧都が湖上安全と衆生済度を祈願して建立したという。現在の建物は昭和12年の再建によるもので、昭和57年にも修理が行われ、昔の情緒をそのまま残している。境内の観音堂には、重要文化財である聖観音座像が安置されている。
【阿波野青畝句碑】
浮御堂の山門のそばに五月雨に濡れた浮御堂の美しさを詠んだ青畝の向碑が立っている。(「五月雨の雨垂ばかり浮御堂」)
●近江八景「堅田の落雁」
三井寺(園城寺)
大津エリア
天台寺門宗の総本山。境内に天智・天武・持統の三天皇の御産湯に用いられたとされる霊泉(井戸)があることから、「御井(みい)の寺」と称され、後に「三井寺」と通称されるようになった。国宝の金堂を始め、西国第十四番札所の観音堂、釈迦堂、唐院など多くの堂舎が建ち並び、国宝・重要文化財は一〇〇余点を数える。
【その他見所】
■近江八景「三井晩鐘」
■弁慶の引摺り鐘
【拝 観】
■特別拝観:国宝光浄院客殿・国宝勧学院客殿
一院につき お一人600円
※三名以上からお申し込みできます(要予約)
■座禅体験:大人1000円 子供500円
※五名以上からお申し込みできます(要予約)
【行事予定】
■4月1〜4月17日 ライトアップ(18:30〜21:30)
■4月3日 青山茶会
■4月8日 花祭り・潅仏会
■4月8日 かっぽれ奉納(9:30〜)
■4月9日 ライトアップコンサート(18:40〜)
石山寺
大津エリア
西国三十三所観音霊場の第13番札所。奈良時代後期に、聖武天皇の発願により、良弁によって開かれた。広大な境内には、寺名の由来となった天然記念物の硅灰石(けいかいせき)がそびえている。国宝の本堂・多宝塔をはじめ、経典・聖教類、仏像、絵巻など多くの国宝、重要文化財がある。
【石山寺多宝塔】
建久5年(1194年)に源頼朝が寄進したと伝えられる日本最古の多宝塔で国宝に指定されている。均整のとれた優美な建築で、内部の柱や天井の廻りなどには仏像や草花などの絵が描かれている。
【月見亭】
近江八景「石山の秋月」のシンボルとなっている月見亭は、瀬田川の清流を見下ろす高台に設けられ、後白河天皇以下歴代天皇の玉座とされた。
【石山寺豊浄殿】
多宝塔の北西、石山寺の最も高いところにある宝物館。毎年春(3/18-6/30)と秋(9/1-11/30)に開催される「石山寺と紫式部」展では、石山寺に伝わる宝物や紫式部・源氏物語に関連した展示を行っている。
●近江八景「石山の秋月」
三大神社
湖南エリア
JR草津駅の北約3.5km、条里集落の遺構地吉田の中心にあります。祭神は志那津彦命(しなつひこのみこと)、志那津姫命(しなつひめのみこと)です。
本殿の傍らにある高さ2m、六角柱の石燈龍は鎌倉時代の石造美術を代表するもので、正応四年の刻銘があり、国指定の重要文化財になっています。
この神社は、毎年4月下旬から5月上旬にかけて、穂が地面に擦るほど長くなることから「砂擦りの藤」と呼ばれる見事な古藤が開花することで知られ、毎年近畿一円からも多くの見学者が訪れます。
また、近隣の志那神社(草津市志那町)と惣社神社(草津市志那町)にも境内に藤があることから、三大神社とあわせて志那三郷の藤とも呼ばれています。
<重文>六角柱の石燈龍
八幡神社(甲良町)
湖東エリア
八幡神社は、五命という女神を祀り、戦勝、家内安全五穀豊穣を祈ることで知られています。在士(ざいじ)八幡神社の創基ははっきりわかりませんが、藤党影盛(とうどうかげもり)が石清水八幡宮を勧請して建立したのが始まりといわれ、極彩色の本堂は藤原氏が大名になる時に修復されたと伝えられます。鳥居脇と本殿裏にある紫藤は、八幡神社を勧請した時、影盛が子孫繁栄米を祈願して植えたと伝えられています。毎年5月中旬頃が最盛期で、棚いっぱいに藤の房が下がります。1房が1m以上もあり、さながら藤のカーテンのようです。毎年5月の弟2日曜には在士(ざいじ)の化切りと呼ばれる藤切祭りが行なわれ、東京の藤堂家に贈ることが毎年の行事となっています。藤堂家では、贈られた12の花房で花見の宴が催されるといいます。昭和52年(1977)1月、藤が町の花に選定されています。
白鬚神社
湖西エリア
JR近江高島駅の南約2kmにある神社。湖中に朱塗りの大鳥居があり、国道161号線をはさんで社殿が立つ。「白鬚さん」「明神さん」の名で広く親しまれ、また、「近江の厳島(いつくしま)」とも呼ばれています。
社名のとおり、延命長寿・長生きの神様として知られ、また、縁結び・子授け・開運招福・学業成就・交通安全・航海安全など、人の営みごと、業ごとすべての導きの神でもあります。祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)。
創建は約2000年前、近江最古といわれる歴史を誇り、現在の社殿は豊臣秀吉の遺命によって、その子秀頼が片桐且元(かたぎりかつもと)を奉行として造営したものです。本殿は正方形の明解な平面で、明治時代の拝殿再建の際、本殿に接続させたために現在のような複雑な屋根形式になっています。
水平線に浮かぶ沖島を背景に、湖中の鳥居を通して漁船が行きかう風景が美しいです。また、9月5、6日の例大祭には、京都・大阪を始め全国から多くの参拝者があります。また境内には、明星派の歌人である与謝野鉄幹・晶子夫婦が神社を訪れた時に詠んだ歌を刻んだ歌碑があります。
〈重文〉本殿
★湖上の鳥居ライトアップ★
日時:①土曜・日曜日 日没から約2時間
②9/5 日没から午後10時頃まで
③大晦日 夜明けまで
④1/1〜1/5 日没から午後9時頃まで
岩間寺(岩間山正法寺)
大津エリア
京都・滋賀の境にある標高443mの岩間(いわま)山頂付近にあります。奈良時代に、泰澄(たいちょう)がカツラの木で千手観音を刻み、本尊にしたのが始まりと伝えられています。室町時代に西国三十三カ所霊場の第12番札所となって以来、多くの巡礼者が参詣するようになりました。本尊の観音像は、人々を苦しみから救うために、毎晩136の地獄を巡るので全身から汗を出すといわれ、「汗かき観音」として、また「ぼけふうじ観音」としても広く慕われています。
木立ちに囲まれ、ホトトギスの声が聞こえる境内には、本堂や大師堂などの建物が並び、本堂横にはしっとりとした独特の趣がある古池があります。この池は、「芭蕉の池」といわれ松尾芭蕉(1644-94)が「古池や蛙飛び込む水の音」という名句を詠んだといわれています。
立木観音
大津エリア
JR石山駅から南へ約7.4km、瀬田川沿い西側にある厄よけ観音。
平安時代前期、瀬田川の対岸に光り輝く霊木を発見した弘法大師(こうぼうだいし)が、急流のため渡れないでいると、突然白い鹿が現れて弘法大師を背中に乗せて岩の上を跳んで渡ってくれました。このことから、この地は「鹿跳(ししとび)」と呼ばれるようになりました。そして、川を渡って霊木の前まで来ると白い鹿は観世音菩薩に姿を変えたといいます。観世音が導いてくれたことに感激した弘法大師は、立木に等身大の観音像を刻み、建立したのがこの寺であるといわれています。
長く急な石段を登ると境内があります。弘法大師が観音像を刻んだのが厄年の42歳であったといわれることから、古くから立木観音は厄よけ観音として広く親しまれ、毎月17日には、月詣りをする参詣者で賑わっています。
新善光寺
湖南エリア
<栗東八景〜彼岸の繁華>
JR手原駅の東約2.2kmにある浄土宗の寺です。鎌倉時代の中期、平重盛の末裔である小松宗定が、平氏追善のために信濃の善光寺に参詣すること48回におよび、ついに霊夢を感じて分身の阿弥陀如来像を請来したのが始まりといわれています。客殿に南北朝時代の木造阿弥陀如来立像が安置されています。中国宋代の影響を受けたもので、重要文化財に指定されています。
客殿前に膳所藩主本多俊次が、本堂を建立したときに造ったという美しい枯山水の庭園があります。庭園は三上山(432m)・菩提山(353.3m)を借景にした庭園で、中央に設けられた見事な築山・楠や槇の大木・石組みや刈り込みのサツキ・杉苔などで構成されています。手水鉢(ちょうずばち)や踏み石に転用されている堂塔の礎石などが、重厚な枯山水の雰囲気を盛り上げています。
春秋の彼岸には縁日が立ち、今も多くの人々で賑わいます。
○近江湖南二十七名刹霊場の一つ
<重文>木造阿弥陀如来立像
甲賀流忍術屋敷
甲賀エリア
JR甲南駅の南約1.3km、竜法師(りゅうぼし)集落のほぼ中心にあります。この忍術屋敷は、甲賀流忍者五十三家の筆頭格、望月出雲守の住居として、江戸時代に建てられ、現在残っている唯一の本物の忍者の住居です。外見は普通の茅葺き屋根の農家ですが、内部は、中二階、三階と 隠し部屋があり、入館者自身で梯子を使って見学することができます。他にも、「どんでん返し」「落とし穴」「抜け道」「忍び窓」など、忍者の知恵で作られたカラクリが随所に仕掛けられています。
その他、甲賀忍者が実際に使用していたという道具や武器が展示され、当時の忍者の知恵と工夫を実感できます。
なお、案内人よる屋敷の説明も聞くことができます。
近江商人博物館・中路融人記念館
東近江エリア
江戸・明治時代、この近江・五個荘の地から、革新的な商法と不屈の精神、そして何よりもお客様の喜ぶ笑顔を心の糧として、全国津々浦々に行商し、やがて豪商へと出世していった近江商人たち。近江商人博物館では《夢かなえびと》近江商人のその成功への軌跡を解き明かしています。 近江商人を育んだ土壌、彼らの商法・教育・精神、そしてその文化を、映像や模型・レプリカで紹介しています。
中路融人記念館では、湖国の原風景に心惹かれ、60余年もの間その風景を追い求め、描き続けた日本画家・中路融人(文化功労者・日本芸術院会員・東近江市名誉市民)の作品を展示。デッサンを大切にし、雪に輝く伊吹山や榛の木の立ち並ぶ田園風景、葦がゆれる湖畔など、一期一会の自然の表情を豊かに表現しています。中路が魅せられた、湖国の原風景をお楽しみください。
彦根城
湖東エリア
姫路城などとともに天下の名城の一つに数えられる彦根城は、井伊直継(なおつぐ)・直孝(なおたか)によって約20年の歳月をかけて建設され、元和8年(1622)に完成しました。佐和(さわ)山城・安土城・長浜城・大津城の石垣や用材が使われました。月明かりに浮かぶ彦根城は美しく、琵琶湖八景の1つに数えられています。明治時代の廃城令や戦火を免れた彦根城の勇壮な姿を、城内散策で眺められます。また、彦根城の別名金亀城(こんきじょう)の名は、彦根城築城以前、彦根山上にあった寺院に金の亀に乗った観音像が安置されていたため、と言われています。国指定の特別史跡です。
<佐和口多聞櫓(さわぐちたもんやぐら)>外側から見て向かって左側は、佐和山城から移築されたもので、国指定の重要文化財です。右側は、開国から100年を記念して鉄筋で作られたもので、「開国記念館」として彦根に関連する資料等の展示が行われています。
<天秤櫓(てんびんやぐら)>羽柴秀吉(はしばひでよし)の長浜城大手門を移築したといわれます。廊下橋を中心に左右対称に櫓が並び立つ姿が、天秤に似ていることからこの名が付きました。この櫓の形は彦根城だけといわれ、国指定の重要文化財です。
<太鼓門櫓(たいこもんやぐら)>本丸表口を固める勇壮な迫力を感じさせる楼門で、城中合図の太鼓を置いたことからこの名が付きました。釘跡が残っているのは、彦根寺楼門が移築されたためと伝えられていますが、佐和山城か長浜城の城門を移築したものという説もあります。いずれにしても釘跡は移築前の建物の痕跡と見られています。国指定の重要文化財です。
<天守>牛蒡積(ごぼうづみ)と呼ばれる石垣は自然石を使い、重心が内下に向くように作られ、一見すると粗雑に見えますが強固な造りです。その上に三重の天守が立っています。規模は小さいが、屋根の曲線の調和が美しく荘厳な雰囲気を持っています。また、花頭(かとう)窓が配列されているのも特長の一つとされています。国宝。
<西の丸三重櫓>西の丸は文庫が立ち並んでいたところですが、今は桜の木が植えられ、春には花見客でにぎわいます。国指定の重要文化財です。
<国宝>天守 付櫓及び多聞櫓 彦根屏風
<重要文化財>太鼓門及び続櫓 天秤櫓 西の丸三重櫓及び続櫓 佐和口多聞櫓 馬屋 我宿蒔絵硯箱
<コラム>---
「時のオルゴ−ル」
お山の鐘として、市民に親しまれている彦根城の時報鐘。
この鐘、当初は鐘の丸に設置され、ご城下に時を知らせていましたが、幕末期に、より遠くまで音色の美しいときを知らせるようにと、多量の小判を投入した鐘に造り直され、太鼓門近くの高台に移されました。
ご城下の人々は、領民安堵のシンボルとして天守を眺め、時報鐘で時を知り、生活を営んでいたのでありましょう。
往時の建物を目で見て、音色も同時に聞くことができるのは、彦根城ならではのもので、時報鐘は時代の移り変わりを音色で知らせる「時のオルゴ−ル」として、今も1日5回打ち鳴らされています。
●琵琶湖八景「月明:彦根の古城」
豊公園
湖北エリア
江戸時代前期に廃城となった長浜城。その城跡に明治42年作られたのが豊公園です。長浜城主であった豊太閤・豊臣秀吉にちなんで「豊公園」と名付けられました。
公園内には長浜城歴史博物館をはじめ、音楽が流れる洋風庭園や噴水、児童公園、テニスコートがあります。
長浜城歴史博物館を囲むように桜の木が植えられており、春にはソメイヨシノを中心に約600本の桜が一斉に咲き誇ります。「日本さくら名所100選」に選ばれおり、長浜城の天守閣(展望台)から見る眺めは、さながら桜の海の様で壮観です。
また、期間中開花にあわせ数日間夜間ライトアップされます。
八幡堀
東近江エリア
八幡堀は、安土・桃山時代に豊臣秀次の八幡山城居城のもと、城下町が栄える原因となった町の一大動脈です。
近江商人の発祥と発展、また町の繁栄に八幡堀は大きな役割を果たし、江戸時代後期には近江国において大津と並ぶ賑わいを見せたといいます。昭和初期までは、常に町の人々の経済・流通路でしたが、戦後は陸上交通の発展によって廃れました。堀に沿って、白壁の土蔵や旧家が立ち並び、華やかだった当時の様子をよく伝えています。日牟禮八幡宮の大鳥居をくぐったところに、堀に白雲橋がかかり、橋からは、かつて全国各地から送られてきた物産を一時保管した土蔵が見られます。近年になって、観光名所として整備され、船着き場などが復元されました。
歴史民俗資料館「近江日野商人館」
東近江エリア
近江鉄道日野駅の東、大窪集落にあります。静岡県御殿場に出店して大成功した日野商人の名家であり、近江守護佐々木氏の一族を先祖に持つ山中兵右衛門(やまなかひょうえもん)の旧宅を資料館にしたものです。典型的な日野商人本宅の特徴を示す建物であり、館内には初期の行商品や道中具、店頭品をはじめ、家訓などが展示され、日野商人の歴史と商いぶりなどがよくわかります。
近江神宮
大津エリア
近江神宮は第38代天智天皇をお祀りし、天智天皇の古都・近江大津宮跡に鎮座しています。全国16社の勅祭社の1社であり、4月20日の例祭には天皇陛下の御名代として宮中より御勅使を御差遣いただいています。
御鎮座は昭和15年11月7日であり、神社としての歴史は新しいのですが、滋賀県・近江国の発展は大津宮に都をおかれたことに始まるとして、古くから湖国では天智天皇に対する崇敬が厚く、1350年の歴史に立脚する神社といえます。明治30年ころより滋賀県民の間から天智天皇をまつる神宮の創建運動が高まり、昭和に入って昭和天皇の御勅許を賜わり、滋賀県民を始め全国崇敬者の真心の奉賛により創建されました。
境内地は約6万坪(20万㎡)。社殿は近江造りあるいは昭和造りと呼ばれ、山麓の斜面に本殿・内外拝殿を回廊が取り囲み、近代神社建築の代表的なものとして、国の登録文化財に登録されています。
御祭神・天智天皇(御神名・天命開別大神 ご在世626−671年)は第34代舒明天皇の皇子で、中大兄皇子と申し上げ、1370年の昔、皇太子として藤原鎌足とともに蘇我一族の専横を除去遊ばされ、大化改新(645)を断行されました。古代社会の転換期に、大陸からの圧力により存亡の危機に直面していたわが国を、偉大なる英知と勇気とをもって雄大な建国の理想を実現せられ、古代国家確立の大本を打ち立てられた御祭神です。
特に天智称制6年(667)都を奈良の飛鳥より近江大津宮へ遷され、その後の内外の施策は目覚ましいものがあり、わが国憲法の源をなす「近江令」を制定、学校制度を創始して国民教育の道を開かれ、また戸籍の制定(庚午年籍)土地制度の改革(班田収授)、当時最新の科学技術を駆使して産業振興を図られるなど、次々に新時代に向けての政策を推進せられ、政治経済の改革・学芸文化の創造発展に寄与されました。困難ななかで画期的な政策を推進し、日本の運命を導いてゆかれたことから開運の神・導きの神として、また産業・文化・学問の神として崇敬されています。
なかでも漏刻(水時計)をお造りになり、社会生活の基本である時報を始められたことはよく知られています。6月10日の「時の記念日」は近江朝廷で時報が開始された日を記念して大正9年(1920)に制定されたもので、毎年この日には近江神宮を時の祖神として崇敬する時計関係者の方々が中心となり、賑々しく漏刻祭が斎行されています。境内には「時計館宝物館」が設けられ、和時計をはじめ各種の古時計などを展示しています。また境内に設置された水時計や日時計は、時計業界からの献納によるものです。
また天智天皇の御製「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」は小倉百人一首の巻頭歌として国民に親しまれ、歌かるたの祖神としても仰がれています。近年は百人一首競技かるたが「ちはやふる」などの漫画やまたドラマでも取り上げられるなど、ことに正月の名人位クイーン位決定戦はよく知られるところとなってきました。境内には奉納された板かるたの額も展示されています。以前は11月に毎年行われ、近年は6月第1日曜日に開催されている流鏑馬(やぶさめ)神事でも知られています。
〈国宝〉崇福寺塔心礎納置品(舎利容器他)
〈重文〉白磁水注
楼閣山水図屏風(曾我蕭白筆)
【近江神宮の歌碑】
小倉百人一首所載の天智天皇の御製をはじめ、弘文天皇の漢詩、万葉集の柿本人麻呂・高市黒人の歌、芭蕉の俳句、保田與重郎ほか近代の歌人・俳人など多くの歌碑・句碑が設けられています。
多賀大社
湖東エリア
延命長寿・縁結びの神として古くから全国的な信仰を集め、豊臣秀吉の厚い信仰もありました。祭神として天照大神(あまてらすのおおみかみ)の両親の伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)を祀っている旧官弊大社です。「お多賀さん」の名で親しまれ、駅前の大鳥居から神社までの参道の両わきにみやげ店などが並びます。
神社を清流が囲み、太閤橋(たいこうばし)と呼ばれる石の反り橋を渡って門をくぐると、玉砂利を敷いた境内の向こうによく茂った木立を背に堂々とした風格を持つ本殿が建ちます。厳かな雰囲気が漂う境内には、本殿右に能舞台、左に絵馬殿が立っています。また、東廻廊の横にある石は、61歳の重源(ちょうげん)が東大寺を再建するために延命を祈願し、無事願いが叶ったたことを記念したもので、延命石と呼ばれています。拝殿などは、格天井が美しいといわれています。社殿は何度かの倒壊や火災により建て替えられ、現在の社殿は昭和7年(1932)に再建されたものです。
また、神社から少し離れた杉坂山に杉坂峠の杉と呼ばれる杉があり、御神木となっています。
<重文>紙本金地著色調馬・厩図(六冊屏風)一双
<コラム>---
お多賀さんとつり鐘
<お多賀さんとつり鐘>と聞いただけで「オヤッ」と思う人が多いことでしょう。そのとおり!「お寺とつり鐘」は当然でしょうが「神社とつり鐘」は大変面白い組み合わせです。
明治までは神仏混合と言って大方の神社境内にはお寺がありました。
このつり鐘は天文24年(1555)に浅井長政や佐々木一族らの手によって鋳造されたものといわれます。この時代以前のものは全国で380個が現存しており、大きさから言えば4番目に大きいといいます。明治の神仏分離のとき境内にあった仏像やお寺の門等は町内のお寺に移されましたが、このつり鐘だけはあまりの大きさにどこからも貰い手がなかったものと思われます。
参拝の折に是非見てみたいものです。
【多賀大社奥書院庭園】
旧不動院の奥書院北側に広がる池泉鑑賞式(ちせんかんしょうしき)庭園で、書院から庭を見降ろす珍しい形式になっています。豊臣秀吉が母大政所の病気平癒のお礼として太閤(たいこう)橋、太閤倉とともに寄進したものといわれ、安土桃山時代の作庭。国指定の名勝になっています。東北に築山を設け、自然の樹木を背景に正面奥に不動三尊石を組み、庭全体にも大きな石を配置しています。石組護岸(いしぐみごがん)で自然な曲線を表現している池は、鶴島・亀島と隅に枯(か)れ滝(たき)を配しています。滝の下に力感があふれる自然石の石橋を渡すなど、見どころが多い庭になっています。<史跡・名勝>多賀神社奥書院庭園
金剛輪寺
湖東エリア
湖東三山の一つで、奈良時代に聖武(しょうむ)天皇の勅願により行基が開山した天台宗の寺院。本尊は行基の作と伝えられます。また、源義経(みなもとのよしつね)が義仲追討の武運必勝を願い太刀を寄進したり、北条時宗が佐々木頼綱に命じて元軍降伏の祈願をしたといわれます。 山門から本堂までサツキに囲まれた石段が続き、山岳城郭であったころの趣を今なお残しています。石段を登りつめたところに、当時の僧の機智により織田信長の焼き打ちによる焼失の難を免れた本堂大悲閣、三重塔、二天門があります。本堂大悲閣は、鎌倉時代の和様建築の代表とされ、国宝に指定されています。本堂前にある二天門は室町時代の建立で、最初、八脚門と呼ばれる楼門でしたが、江戸時代に二階部分が取り壊され現在の形になりました。三重塔は大悲閣(だいひかく)より古いものですが、荒廃したままとなっていたため、昭和49年(1974)復元されました。 ツツジやシャクナゲの名所としても知られ、山門脇に塔頭の常照庵(じょうしょうあん)が草むらに埋もれ残っていて、寺宝にも見るべきものが多いです。また、厄除けのかぶら汁が接侍される初観音や、大きな数珠(じゅず)を回して念仏を唱える千体地蔵盆など有名な行事もあります。<国宝>本堂大悲閣<重文>三重塔 二天門 木造阿弥陀如来坐像(2躯) 木造十一面観音立像 木造不動明王立像 木造毘沙門天立像 木造慈恵大師坐像(2躯) 木造四天王像 木造大黒天(日本最古) 銅磬
【金剛輪寺庭園】
黒門(惣門(そうもん))をぬけ、白門をくぐった参道の途中に、金剛輪寺の本坊明寿院(みょうじゅいん)があります。明寿院は、江戸時代の創建といわれ寺宝を多く保存し、かつて学頭所(がくとうしょ)として使われていました。この本坊の南・東・北の三方を囲むように庭園があり、心の字池が3庭を結んでいます。3つの庭は、作庭された年代がそれぞれ異なる池泉回遊(ちせんかいゆう)・鑑賞式(かんしょうしき)の庭園で、それぞれが名勝に指定されています。桃山時代に造られた庭は、「石楠花(しゃくなげ)の庭」と呼ばれ、庭の中央に架けられた優雅な石橋のそばに、鎌倉時代に作られた苔むした多くの石が配され、品格のある雰囲気です。春になると、庭のそばにある護摩堂のカキツバタやシャクナゲが鮮やかに咲き、華やかになります。
江戸初期の庭は金剛輪寺の主庭で、他の庭と趣が異なり、どっしりと落ち着いた雰囲気です。枯れ滝が配され、夏には池一面に睡蓮(すいれん)が清楚な花を咲かせます。 江戸中期の庭は、滝から池に水が流れ、池の中に七福神の宝船を表わす岩でできた舟が配されています。また、桃山時代の庭の宝篋印塔(ほうきょういんとう)を見下ろすように立つ水雲閣は、湖東随一の茶室で、天井に桜、なでしこ、菊など四季おりおりの花が描かれています。またこの茶室からの庭の眺めは美しく、一見の価値があります。
【常照庵】
金剛輪寺の塔頭で、江戸時代に常照院が開基したと伝わります。本堂・不動堂などを備え、本尊の木造阿弥陀如来座像等が国の重要文化財に指定されています。
●近江七福神「大黒天」
鎌掛谷ほんしゃくなげ群落
東近江エリア
鎌掛谷の南側のアカマツ林の間に生育しています。昭和6年(1931)に国の天然記念物に指定されました。このシャクナゲはすべてホンシャクナゲという種類のもので、7弁7裂・14雄しべを持つ美しい淡紅色(たんこうしょく)の花を咲かせます。口の割谷から女木谷にかけて特に多く自生しており、斜面約4万平方メートルに純木をなしています。本来が高山植物であり、鈴鹿山系でも標高800mから1000m付近の高所に見られるのが普通ですが、ここでは、標高350m前後の低地に、しかも群生するので非常に珍しいといわれています。
甲賀の里忍術村
甲賀エリア
JR甲賀駅の北約1.8km。忍者発祥の地、甲賀の里として広大な敷地に、忍術博物館やからくり屋敷・水ぐも池・手裏剣(しゅりけん)道場などがあって、昔ながらの隠れ里の世界を体験できます。 また、自分で描いた絵が陶器になるらくやきコーナーや、甲賀杉(こうかすぎ)でいろんな物を作る焼杉コーナーなどがあり、忍術だけでなく、手作りの楽しみを満喫できます。 また、子供たちには忍者道場が人気があり、塀登り・綱渡り・からくり井戸などの体験が終わると、最後に巻物がもらえます。
草津宿本陣
湖南エリア
JR草津駅の南約500m。周囲には高塀や藪をめぐらし、国の史跡に指定されています。 本陣とは大名公家など貴人の宿泊所のことで、東海道・中山道の分岐点で交通の要衝であった草津には2軒ありました。現在、1軒が残っており、別名「木屋本陣(きやほんじん)」と呼ばれています。 寛永(かんえい)12年(1635)に創建されましたが後に焼失し、膳所(ぜぜ)藩主本多家(ほんだけ)の「瓦ヶ浜(かわらがはま)御殿」を拝領したものといわれ、4727平方メートルという広大な敷地に、建物面積1706平方メートル、部屋数39という本陣としては最大クラスの屋敷です。書院造で表門、御除門、敷台付き玄関に庭という、本陣としての型通りに建てられてあり、東海道筋では唯一ほぼ完全に残っている本陣です。建物のほかにも、多数の関札(せきふだ)、膨大な大福帳(だいふくちょう)(宿帳)など貴重な資料が残されています。大福帳には、忠臣蔵の吉良上野介(きらこうずけのすけ)や浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)、皇女和宮(こうじょかずのみや)、シーボルト、新撰組(しんせんぐみ)の土方歳三(ひじかたとしぞう)などの名前も見られます。
旧和中散本舗
湖南エリア
<栗東八景〜積日の海道と城跡〜>
JR手原駅の東約2km、旧東海道沿いの六地蔵にあります。大角弥右衛門家の邸宅のことで、豪商の昔の姿をそのまま今に留めています。
六地蔵には江戸時代、旅人のために道中薬を売る店が数軒あり、大角家は、その中で和中散という薬を売る「ぜさいや」の本舗として栄えました。薬を売るだけでなく、草津宿と石部宿の「間の宿」として、公家・大名などの休憩所も務めたといいます。和中散という名は、徳川家康が腹痛を起こしたとき、この薬を献じたところ、たちまち治ったので、家康から直々付けられた名前といいます。
邸宅の内部は、大きな店の間、ぜいを尽くした玄関や隠居所の欄間など、実に華麗です。特に、店の間などは豪商の店構えらしく重厚に造られ、板戸などもよく工夫されています。また、仕事場には、木製の動輪や歯車の付いた製薬用石臼が、昔のままの姿で保存されていて、興味深いものです。
店舗のほか、製薬場・台所・居間と玄関及び屋敷・正門・隠居所などが、国の重要文化財に、そして住宅全体が国の史跡に指定されています。
平成13年には、新たに庭園が国の名勝に指定されました。小堀遠州作という言い伝えがある池泉鑑賞式庭園の本庭には、築山(芝山)があり、背後には日向山(にっこうやま)が望まれ、東海道という連続した旅情の一場面を切り取った庭という趣が感じられます。
<重文>大角家住宅主家 正門 隠居所
<史跡>旧和中散本舗
<名勝>大角氏庭園
竹生島
湖北エリア
沖合約6kmに浮かぶ周囲2kmあまりの小島で、宝厳寺と都久夫須麻神社が祀られています。宝厳寺の本尊は弁才天と千手観音。弁才天は安芸の宮島、相模の江島とともに日本三弁天に数えられています。また、中世以来西国三十三所観音霊場の三十番札所として多くの参詣客で賑わっています。
宝厳寺の唐門は秀吉の大坂城の唯一の遺構と伝わり、都久夫須麻神社の本殿とともに国宝に指定されています。
近年は琵琶湖第一のパワースポットとして注目を集めています。「深緑竹生島の沈影」として琵琶湖八景の一つ。
●琵琶湖八景「深緑 竹生島の沈影」
ボーダレス・アートミュージアム NO-MA
東近江エリア
2004年6月に改築した「ボーダレス・アートミュージアムNO-MA」は、滋賀県近江八幡市の歴史ある伝統的建造物郡保存地区にあり、昭和初期の町屋を、和室や蔵などを活かして改築したミュージアムです。このミュージアムの特徴は、障害のある人の表現活動の紹介に核を置くことだけに留まらず、一般のアーティストの作品と共に並列してみせることで「人の持つ普遍的な表現の力」を感じていただくところにあります。
菅浦集落
湖北エリア
菅浦の地には、奈良時代恵美押勝(えみのおしかつ)の乱で道鏡や孝謙上皇に負け、廃位になった淳仁(じゅんにん)天皇が住んでいたという伝説が残っている。淳仁天皇は、幽閉地で憤死したといわれ、須賀神社の裏山に淳仁天皇の御陵という塚が残っている。菅浦の村に入る東西の道には、四足門と呼ばれる茅葺きの門が残っている。かつては、ここで村に入ってくる外来者の監視にあたったと言われている。また、鎌倉時代から明治時代初めにかけて作られた村落や漁村生活を記した菅浦文書が残されており、菅浦郷土資料館に保存されている。
<重文>菅浦文書65冊、菅浦与大浦下庄堺絵図(須賀神社) 木造阿弥陀如来立像(阿弥陀寺)
ガーデンミュージアム比叡
大津エリア
フランス印象派の画家たちが作品の制作のモチーフにした風景や庭園を再現しています。春から秋まで1,500種10万株の草花が咲き競う庭園に、印象派の代表的な絵画42点を陶板にして再現しており、庭園散策を楽しみながら絵画を鑑賞できる施設です。
比叡山の山頂に位置しており、琵琶湖や京都市内を一望することができます。また、園内にはカフェやショップ、足湯を開設しています。
イングリッシュガーデン ローザンベリー多和田
湖北エリア
自然に囲まれた静かな山あいに、13,000㎡もの広大なイングリッシュガーデンがあります。バラやクレマチスや四季折々の山野草が植栽され、1年を通して様々な風景がお楽しみいただけます。
園内には、野菜をふんだんに使用した身体に嬉しいバイキングレストランや、庭を眺めてゆったりくつろげるカフェ、体験型のバーベキューも併設。また、丘の上のエリアには、「妖精と暮らす村 フェアリーガーデン」や「羊のふれあい牧場」もあります。また2019年春には、「ひつじのショーン ファームガーデン」エリアが誕生。園内の移動には「ローザン鉄道ミルキーウェイ」も遊覧しています。ショップでは、オリジナルの焼き菓子やマヌカハニーソフトクリーム、ショーングッズが大人気です。その他、全国各地の良品やお洒落なガーデン雑貨、季節の花苗も販売し、寄せ植えもオーダーしていただけます。
ニュージーランドワインショップでは、OSAWA WINES のワインをはじめ、ニュージーランドのマヌカハニーやボディケアグッズも取り揃えています。
針江生水の郷 かばた
湖西エリア
※案内業務のお休みのお知らせ
新型コロナウイルス感染のリスクを避けるため、2020年2月27日から、
厚労省(政府)の終息宣言がされるまで、
案内業務を休ませていただきます。
厚労省(政府)の終息宣言が出るまでは、ご予約受付もできません。
この度の対応に、ご理解賜りますようお願い申し上げます。
新旭町針江(はりえ)地区は、里山の写真家・今森光彦さんが撮り2004年1月にNHKハイビジョンスペシャルで放映された映像詩『里山・命めぐる水辺』の舞台となった場所です。
地域の綺麗な湧き水を、地域住民は生水(しょうず)と呼び、昔から大切に利用してきました。集落の中を巡る水路やその水を生活用水に利用したシステムを"かばた"(川端)と呼んでいます。このような水の文化、美しい景色、地域の人との触れあいなどを求めて今では日本中、海外よりたくさんの人が見学に見えるようになりました。
針江生水の郷委員会では、びわ湖周辺の豊かな自然や水辺の暮らし、または地域の人々に触れながら、現代の暮らしを見つめ直すきっかけを感じていただけるようにと、かばた見学ツアーを行っています。
くすり学習館
甲賀エリア
「人と薬の関わり、配置売薬などの歴史」を学ぶ施設としてオープンしました。
常設展示室をはじめ企画展示室、体験学習室なども設けられています。
忍者の携帯食「兵糧丸」づくり体験も行っています。
10名様~要予約