モデルコース

賤ケ岳の戦いの跡地をめぐる

日程
1日
エリア
湖北
1
JR木ノ本駅
0.5km
  • 自転車2分

地蔵院の門前町として栄えたところ。
北国街道と北国脇往還が交わる宿場町で、旅人と木之本のお地蔵さんの参拝客で賑わいました。
木之本宿には昭和の初めまで中央に小川が流れ、柳の木が植えられた宿場らしい風情を残していましたが、今では埋め立てられ、商家の家並みに昔の風情を残しています。

2.7km
  • 自転車15分

安土桃山時代、本能寺の変で織田信長が倒れた後、明智光秀を討ち実質的な主導権を握っていた豊臣秀吉と、織田家の旧臣中第一の家柄を誇る柴田勝家との間で権力争いが生じ、ついに武力をもって決着を付けようとしました。これが俗にいう「賤ヶ岳の合戦」です。余呉湖を挟んで、両軍は北と南で睨み合っていましたが、天正11(1583)年の4月20日の未明、勝家側が大岩山に奇襲攻撃をかけた時に始まり、秀吉が勝利を手にするまで、わずか2日足らずで終わっています。辺りは、あまたの屍体で埋め尽くされ、余呉湖が血で紅に染まったといいます。斬りこみ一番槍の功をたてた、世に名高い秀吉旗下の「賤ヶ岳の七本槍」の活躍はこのときの武勇伝です。
 賤ヶ岳の山頂広場には、戦跡碑や、戦没者の碑が立てられており、尾根続きの大岩山頂にも、秀吉側の武将中川清秀の墓があります。さらに、北麓には広い範囲にわたって、両軍の戦死者の墓や遺跡が点在し、南麓の山梨子(やまなし)集落には、落人伝説が残されています。

6.3km
  • 自転車45分

賤ヶ岳(約422m)を一つ隔てた琵琶湖の北にあります。面積約1.8平方キロメートル・周囲約6.4km、水深13m、三方を山で囲まれた断層盆地にあって、琵琶湖との水面落差が49m近くあります。古くは、琵琶湖を大江(をおうみ)、余呉湖を伊香(いか)の小江(をうみ)と称し、天女の羽衣や龍神・菊石姫の伝説が残る神秘の湖です。別名「鏡湖」とも呼ばれます。
 白鳥に姿を変えて水浴びを楽しんでいた8人の天女の姉妹のうち、伊香刀美(いかとみ)に羽衣を取られた末妹だけが天に帰れなくなり、夫婦となって2男2女をもうけたという物語です。また羽衣を取ったのは桐畑太夫で、菅原道真がその子であると伝える話もあります。
 余呉湖と琵琶湖にのみ棲息する特産物・イワトコナマズをはじめ、ワカサギ、フナ、コイ、ウナギ、ナマズなど魚類も多くいます。夏は水面近くをフナの大集団が回遊する姿が見られ、冬には水鳥も飛来します。
 湖畔には、遊歩道などの施設が完備され、レンタサイクルも利用できます。

●規模
 面積約1.8平方キロメートル・周囲約6.4km、水深13m

●観光資源
 天女の羽衣や龍神・菊石姫の伝...

4.7km
  • 自転車25分

文明元年(1469)僧全長、池原村字新堂に阿弥陀如来を本尊とする浄土宗の一宇を開き全長坊(ぜんちょうぼう)と称す。大永6年(1526)全長示寂を前に禅門に帰依し、同郡椿坂村曹洞宗桂照院二世頤正全養に請うて全長坊を託す。慶長2年(1597)頤正禅師、全長の意を受け全長坊を曹洞宗に転じ、寺名を久沢山全長寺と改め、当寺の開山となる。
安永6年(1777)池原、国安、文室、東野、今市の五ヶ村より現在の境内地の寄進を受けた。十世泰蟠童龍禅師は15ヶ年の歳月を費し、此の地を開いて七堂伽藍を建立し、寛永2年(1626)この地に移り中興の祖となる。門前の杉の老木は当時のものである。以来法灯連綿として今日に至っている。
 またこの附近は賤ヶ岳合戦の古戦場で寺をとりまく四囲の山々には今も陣地跡が残っている。中でも北方林谷の砦跡は柴田勝家の身代わりとなった毛受勝助兄弟が、数千に及ぶ秀吉軍と壮烈な戦いを繰り返し全員討死した所である。山麓毛受(めんじゅ)の森には兄弟の墓がある。
 全長寺(ぜんちょうじ)は古くより毛受兄弟の菩提寺として、また賤ヶ岳合戦に武運拙く此の地に果てし多くの無名戦士達の霊の供養を続け...

0.8km
  • 自転車4分

賤ヶ岳の合戦において、大岩山の初戦では柴田勝家の軍が勝利を得ましたが、羽柴秀吉の素早い行動を予測しきれずに、次第に勝家側の敗色が濃くなっていきました。
 勝家は、自ら兵を率いて決戦を挑もうとしましたが、忠臣毛受勝助に諫められ、北ノ圧へ落ち延びて陣を立て直そうとしました。毛受勝肋は兄の茂左衛門とともに勝家の身代りとなって、秀吉軍と戦いました。
 しかし加藤清正「賤ヶ岳の七本槍」をはじめとする秀吉軍の一斉攻撃を受けて、勝助以下全将兵討ち死しました。首実験の結果、すぐに身代りであることがわかり、秀吉をいたく感動させました。勝家はその2日後の4月23日、北の庄の城を包囲され再婚したばかりの夫人、お市の方とともに自刃しました。
 毛受兄弟の忠節は、後の世までも語り継がれ、明治9年(1876)この地を訪れた滋賀県令籠手田安定(こてだやすさだ)(1840-99)によって、林谷山麓に墓が立てられました。朱色の鉄柵で囲われた墓の周囲は整備され、遊歩道が設けられています。

5km
  • 自転車27分
7
JR余呉駅