16世紀終りに豊臣秀吉の甥・秀次が築いた八幡山城の城下町として開かれ、その後近江商人の商業活動の町として発展した。町の北側を走る八幡堀は、琵琶湖を往来する荷船の流通により近江商人と町の発展を支え、堀に沿っては白壁の土蔵や旧家が並び、現在は堀沿に石畳の遊歩道も整備されている。新町通り周辺が八幡を代表する商家の町並みとなり、旧西川家住宅、伴家住宅など大型の町家が建ち並んでいる。保存地区には、この新町通り、八幡堀周辺と永原町通りの道筋約1.6kmが形つくるコの字形の地区に、日牟礼八幡宮周辺の一画を加えた範囲が重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

 

豊臣秀次が築いた城下町は山麓から舟木を家臣の居住地とし、堀の南側に町人地がおかれたらしい。町人の居住地は、南北12筋、東西4筋の碁盤目状で、見通しの良い整然とした町割りである。文禄4年(1595年)秀次の失脚に伴い、八幡山城は破棄されるが、町は町人たちの力により再生し、八幡商人たちの商売努力によって江戸時代を通じて発展した。築城以来の旧城下町の形態とともに、碁盤目の町割、江戸時代に活躍した八幡商人の居宅、洗練された意匠からなる質の高い町家などが現在も残る。町家は切妻造桟瓦葺、入りを基本とし、外観は格子、虫籠窓により統一感を感じさせ、軒下に貫を一筋見せる形や卯立が町並みに特徴を与えている。見越しの松、塀、土蔵が連なり落ち着いた雰囲気を感じさせる。

  • 旧西川家住宅

  • 旧西川家住宅内観

  • 旧伴家住宅

  • 白雲館

  • 八幡堀り

  • 新町通り

  • 江戸時代の古地図