鈴鹿山系には近江と伊勢や美濃を結ぶ峠道がいくつも通る。紅葉の名所永源寺を抜ける八風街道もその一つで、鎌倉時代の史書『吾妻鏡』にも記されている。山中に「宇治は茶所、茶は政所」と謳われる銘茶の産地・政所があり、鈴鹿山系の山裾、日野から甲賀にかけてパッチワークのような茶園が田畑を見下ろすように点在し、銘柄を競う。そんなのどかな田園風景の中に日野の町がある。

利休七哲の筆頭に挙げられ、文武両道に秀でた戦国武将、蒲生氏郷(1556~95年)は日野城に生まれ、十三歳で織田信長の人質となるまでの多感な少年期を、日野で過ごした。滋賀県地図の薄緑色に塗られた平野部だけを見ると、日野の町は野球に譬えれば捕手の位置にある。真っ直ぐ北、一塁側に長浜、湖北地方。二塁が観音寺城、安土城。三塁側が大津そして京都だ。一塁側ダッグアウトは、いつも優しく見下ろす綿向山になる。そんな捕手目線で歴史の舞台を望む日野の地勢が、世の動きを冷静に判断する力を養わせたのではないか。全国で活躍した日野商人たちも、そんな視線で世の中を眺め、成功を収めた。留守を預かる女たちは、いつ男たち帰ってきても気持ちよく迎えられるよう、街並みは常に整えられていた。その精神は現在も受け継がれ、美しい町並みは旅人にもふるさとに戻ったような気分にさせてくれる。寺院もいつ参拝者が訪れてもよいように掃除され、突然の雲水の訪問にもすぐ対応できるようだ。

そんな日野は文人墨客にも愛された。日野に生まれ狩野派に学び、大阪、堺、江戸で活躍した絵師高田敬輔は、晩年日野に暮らし、蒲生家の菩提寺、信楽院の天井に大迫力の雲龍図を残した。敬輔七十歳の作で、老いて益々盛ん。パワーの源は愛すべき日野の人々と街並みだったろう。会津九十二万石の大大名となった氏郷も故郷を懐かしみ、綿向神社参道の若松の森から「会津若松」の名を残した。

上記記事はPHP研究所発行の「歴史街道 2010年6月号」の記事をもとに構成したものです。