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うばがもちの姥

街道の名物「うばがもち」

「瀬田へ廻ろか矢橋へ下ろか此処が思案のうばがもち」 これは江戸時代の東海道の名物、府中安倍川の「安倍川餅」と双璧をなす「うばがもち」という餅を詠み込んだもの。蕪村が詠み広重の浮世絵にも描かれ、『広辞苑』には「あんころ餅の一種。滋賀県草津の名物。」とある。現在も乳房に似たユニークな形の餅が売られている。

うばがもちの諸説

実は、この「うばがもち」。ルーツは戦国時代末期に遡る。

諸説あるものの、もっとも世間に流布しているのは文化11年(1814)に刊行された「近江名所図会」にみえるもの。近江源氏佐々木義賢の子孫が寛永年間(1624〜44)に殺され、遺された三歳の子を乳母が預かり、郷里の草津で育てた。乳母は生活の糧として餅を作って街道に出て大名高家の乗物などに泣いてすがって餅を買ってくれるよう訴えた。その甲斐もあってか、小さな店を開き、乳母が作る餅を「乳母が餅」と呼ぶようになったという。

ただしこの話、必ずしも裏付けがとれるものではなく異説がある。

享保19年(1734)に編まれた『近江輿地志略』には、大坂の陣を終えて凱旋した徳川家康に80歳を越える乙姥が餅を献じたところ、それを従軍の士に分け与えたことから評判を博し、その名が広まったのだという。なお、乙姥は非常に長命であったらしく、慶安元年(1648)に103歳で亡くなったといわれる。

これと同様の話は、江戸時代に姥が餅屋を営んでいた金澤家の文書にみられる。ここには、近江源氏佐々木六角氏の家臣であった矢倉越前守國重の縁者福井久右衛門重好が慶長10年(1605)に亡くなった後に、妻登野が餅屋を開業したのがはじまりとされる。その登野は慶安元年12月30日に103歳で亡くなったことが記されていることから、『近江輿地志略』にみえる家康に餅を献じて「うばがもち」の名声を高めた乙姥とは、登野その人であったことが推測できるのである。

なお、没年から逆算すると、乙姥もしくは登野は天文14年(1545)の生まれということになる。まさに戦国時代の真っ直中。列島各地での戦いが激化し、織田信長からはじまる天下統一に向かう時代を生きたことがわかるのである。

ともあれ、これらの話はいずれも同時代のものではないので、信憑性に問題がないとはいえず、鵜呑みにすることは出来ない。残念ながら、「うばがもち」のはじまりについては、はっきりとしたことがわからないのである。

うばがもちの姥

ここで紹介した「うばがもち」のルーツは、少しずつ登場人物や時代背景が異なる。とはいえ、概ね共通しているのは、「姥」もしくは「乳母」が餅を売っていること、戦国時代末から江戸時代初期にかけての話であることである。

戦国時代末期に生まれ現代に生きる名物「うばがもち」は、戦国の世の近江をたくましく生き抜いた女性が居たことを知らせてくれるのである。

(滋賀県教育委員会文化財保護課 畑中英二)