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豊臣秀次とその妻たち

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 「摂政関白」という言葉がある。摂政とは幼少な天皇や病弱な天皇に代わって政治を行う職である。関白は天皇の代わりに政治を行う職で、公家の最高位である。いずれも、最終的な決裁者はあくまでも天皇であるが、摂政関白は「天皇の代理人」という意味がある。その「摂政関白」をもじり、「殺生関白」と呼ばれた戦国武将がいた。それが豊臣秀次である。

 『太閤さま軍記のうち』に、次のようなくだりがある。「さるほどに、院の御所崩御と申すに、鹿狩りを御沙汰候。法儀も正しからざるあひだ、天下の政務を知ること、ほどあるべからずと、京わらべ笑つて落書にいはく、院の御所にたむけの狩りなればこれをせつせう関白といふ」。正親町天皇の崩御にもかかわらず、秀次は比叡山に女性を連れ、根本中堂の院内に馬を繋ぎ鹿狩りに出かけた。叡山は殺生禁断の地であるにもかかわらず、鹿・猿・たぬきを狩り、中堂で料理し食し、その日は逗留した後、帰りに山中に道具を全て捨て下山した。こうして鹿狩りにほうけていた秀次を揶揄する言葉として「殺生関白」が使われ、また別の日には、北野天神で座頭一人をなぶり殺しにしたといって、民からそうあだ名されたのである。

  しかし、これはあくまで市中の風聞に過ぎず、信憑性には疑問が残る。近年はむしろ、秀次の優れた治世が見直される傾向にある。秀次は、永禄11年(1568)、三好吉房と秀吉の姉瑞龍院日秀の子として生まれた。はじめ、信長の浅井攻めの時、宮部継潤の養子として送り込まれ滅亡後に帰還。その後、信長の四国攻めに伴い、今度は阿波国で勢力を誇っていた戦国大名三好康長の養子として送り込まれ、三好信吉と名乗った。天正11年(1583)、賤ヶ岳の戦いで功を挙げたが、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、徳川家康軍の奇襲で惨敗、秀吉から叱責された。天正13年(1585)の紀伊雑賀攻め、四国攻めではふたたび功を挙げ、近江国蒲生郡八幡山に43万石を与えられ築城した。風評とは裏腹に、田中吉政ともども治世は良く、民に篤く信頼されていたという。天正18年(1590)の小田原の役に参加後、織田信雄の旧領尾張国と伊勢国北部5郡を領した。その後、近江八幡山から聚楽第に移り政務を執ったが、秀吉との二元政治となったことが問題となった。天正19年(1591)8月に秀吉の嫡男・鶴松が死去した時、豊臣秀長亡き後豊臣家の血を守るために秀吉の養子となり、12月に関白に就任した。しかし、文禄2年(1593)に秀吉に二男の秀頼が生まれると、秀吉からは次第に疎まれ、謀反の嫌疑を掛けられたうえ、文禄4年(1595)7月8日に高野山に追放、同年7月15日に切腹を命じられた。享年28歳という。辞世は、「磯かげの松のあらしや友ちどり いきてなくねのすみにしの浦」。

 さてさて、ここでの話題は、秀次とともに散った戦国の女性たちの話である。当時にあっては、驚くべき事ではないが、正室・側室の数合わせて39人を数える。まず、正室の若御前(わかごぜん)である。若御前は、織田氏の家臣、後に豊臣秀吉の家臣となり犬山城主、大坂城主、大垣城主をつとめ、小牧長久手の戦いで戦死した猛将池田恒興の娘である。実は、若御前は父の力で三河に送り返され死を逃れている。そして、継室である。継室は右大臣菊亭晴季の娘・一ノ台である。彼女はこの年34歳で処刑された。辞世は「つまゆえにくもらぬ空に雨ふりて 白川くさの露ときえけり」。短く儚い生涯を閉じた。

 秀次をめぐる女性たちの最後は『太閤さま軍記のうち』に詳しいが、その情景を見る前に、まず秀次および側近達の処罰について触れておきたい。文禄4年(1595)7月13日、検使として増田長盛、石田三成が赴き沙汰が下される。白井範秀は四条道場にて切腹、妻女自害。熊谷直澄は二尊院にて切腹。木村重茲は摂津大門寺にて自害、妻女は三条河原で磔。一柳右近可遊は家康お預かり、妻女は伊藤伊賀守にお預け。服部一忠は切腹、妻女は吉田清右衛門にお預け。木村志摩守、渡瀬繁詮、明石則実、羽田正親、前野景定、粟野秀用等が切腹。いずれの妻女も磔。前野長康自害。他にも、改易、遠流、蟄居となった者、三好吉房、六角義郷、木下吉隆、里村紹巴、浅野幸長(後に復帰)、増田盛次(後に復帰)、前野忠康、滝川雄利、荒木元清、菊亭晴季、土御門有脩と膨大な数に及び、いずれも哀れな末路をたどっている。 秀次自身は雀部重政の介錯により切腹し、重政と東福寺の僧・玄隆西堂、山本主殿、不破万作、山田三十郎等も切腹。 秀次らの遺体は青巌寺に葬られ、秀次の首は三条河原へ送られた。

 さて、文禄4年8月2日に行われた秀次をめぐる女性たちの最後は、次のような形で今に伝えられている。まず、京の三条河原に二十間四方の堀が掘られ、その外に鹿垣(竹で組んだ垣根のこと)が回された。堀の内には、九尺四方の大きな塚が築かれ、すでに斬首となっていた秀次の首が西向きに据えられた。当日の見物人は、とても多く、警固も厳重であったという。そこへ、最後を迎える華やかな出で立ちの娘達や乳子が、ひとつの車両に3、4人ずつ乗せられ、刑場へ引き入れられていったという。このような憂き目をみることは、いかなる因果か、報いか、あさましきことかと。また、精根尽き果てた、美しき人々が、花を折るごとく、二太刀にて刺し殺される様、親は子をかばい、子は親をかばう姿は目を覆うがごとくで、心も失い哀れであると伝えている。

 処刑された主な女性たちは以下の通りである。お知屋(美濃竹中与右衛門娘18歳)、お辰(尾張山口少雲娘19歳)、お佐子(北野松梅院娘19歳)、中納言局(摂津小浜殿娘34歳)、お妻(四条殿娘17歳)。お伊万(最上義光娘駒姫19歳、伊達政宗の従妹、東国一の美少女と名高く、それを聞き秀次が最上に差し出させた。幾度も断ったが度重なる要求に折れ、父の必死な助命嘆願で秀吉もこれを聞き入れ、鎌倉で尼にするようにと命を出したが、時既に遅く、処刑場にその報が到達した時には処刑されてしまっていた。娘の死を聞いた母は悲しみのあまり処刑の14日後に自殺している。義光自身も悲嘆に暮れ、またこれが恨みとなり、後の関ヶ原の戦いで徳川方に付いたともいわれている)、お按察使(あぜち、秋庭氏娘31歳)、お阿子(美濃日比野清実娘、22歳)、お国(尾張大島親宗娘、22歳)、およめ(尾張堀田二郎左衛門娘26歳)、おさな(美濃武藤長門娘16歳)、お菊(摂津伊丹忠親娘16歳)、おまさ(斎藤吉兵衛娘16歳)、お愛(古川主膳娘24歳)、お竹、お美屋(一の台娘13歳)、左衛門の後(岡本彦三郎娘38歳)、右衛門の後(村善右衛門妹35歳)、おみや(高橋氏娘、42歳)、東殿(美濃、61歳)、小少将(備前本郷主膳女房24歳)、おなあ(美濃坪内三右衛門娘19歳)、お藤(大草三河娘21歳)、おきみ(近江34歳)、おとら(上賀茂岡本美濃娘24歳)、おここ(和泉たにのわ娘21歳)、おこほ(近江鯰江才助娘19才)、せうせう(越前)、おこちや(最上)等。 約5時間もかけて行われた家族らの処刑後、遺体は埋葬され秀次の首を収めた石櫃が置かれたという。戦国時代の怖い一面を知る事件であった。これらの経緯を記した絵巻が「瑞泉寺縁起」として、いまも京都の瑞泉寺に残されている。

(滋賀県教育委員会文化財保護課 木戸雅寿)

  • 豊臣秀次像(八幡公園)豊臣秀次像(八幡公園)
  • 八幡堀(八幡山城外堀と運河を兼ねる)八幡堀(八幡山城外堀と運河を兼ねる)
  • 村雲御所瑞龍寺(八幡山城本丸跡)
  • 村雲御所瑞龍寺(八幡山城本丸跡)

村雲御所瑞龍寺(八幡山城本丸跡 秀吉の姉・瑞龍院日秀が息子秀次の菩提を弔うため建立)