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徳寿院

関係図
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信長の嫡孫・秀信(三法師)の母

 徳寿院(生年不明〜一六三三)は織田信長の嫡男・信忠の側室で、秀信を生んだ。ところが、素性については諸説あってはっきりしない。塩川国満(もしくは長満)の娘・鈴とする説と、森可成の娘とする説が比較的よく知られるが、武田信玄の娘・松姫であるとか、和田孫太夫の娘、進藤氏の娘とする説もあり、混乱をきわめている。

 織田秀信(幼名三法師、一五八〇〜一六〇五)は信長の嫡孫で「清洲会議」の結果織田家の家督を継ぎ、従三位権中納言に昇任した人物である。「清洲会議」とは、明智光秀が討伐された後の天正十年(一五八二年)六月、羽柴秀吉・柴田勝家ら織田家の宿老たちが、信長亡き後の織田家の後継者と遺領配分について尾張清洲城で話し合った会議をいう。会議では後継者に信長の三男信孝を推す柴田勝家に対し、秀吉は本能寺の変で信長とともに死んだ嫡男信忠の遺児・三法師(当時二歳)を推し、その主張が認められた。

 歴史ドラマ等でお馴染みのハイライトシーンでは、秀吉が幼い三法師を抱き上げて上座へ進み、「上様にあらせられるぞ。頭が高い!」などと居丈高に言い放つのが定番となっている。そのシーンは江戸時代中期に刊行された読本(よみほん)『絵本太閤記』の挿絵を踏まえたもので同時代史料に裏付けられた史実とは言い難いものの、歴史ファンなら一度は目にした「名場面」であることには違いない。ところが、その三法師の母がどこの誰だか確定できないのであって、そのことには意外性を感じられる方が多いだろう。

 ではなぜ、彼女のことを「近江の姫」として紹介するのか。

 実は、大津市比叡辻の聖衆来迎寺に彼女の墓や位牌、肖像画などが存在するのである。開山堂伝来の位牌(黒漆塗、総高61.0、幅19.0センチメートル)には、次のように表される。

<表面>(朱書)
日      寛永十年
(梵字「ア」)徳寿院殿繁林恵昌大姉 霊位
盃      十一月廿三日
<裏面>(陰刻)
岐阜黄門平秀信御母堂也
葬于当寺
<底面>(墨書)
寛永十
繁林恵昌大姉
十一月廿三日

 それによって徳寿院の詳しい法名や、寛永十年(一六三三)十一月二十三日に亡くなったことがわかる。また、「岐阜黄門(黄門は中納言の中国風呼称)」こと織田秀信の母であること、聖衆来迎寺に葬られたことが記されている。さらに寺伝では、晩年の徳寿院が聖衆来迎寺に隠棲したといい、現に五輪塔型の墓石も存在する。息子である織田秀信の肖像画も伝えられている。

 すなわち、徳寿院は晩年、琵琶湖のほとりで静かに念仏三昧の日々を送ったと伝えられているのである。彼女は秀信が岐阜城主であった文禄二年(一五九三)十月二十三日に豊臣秀吉から美濃国厚見郡東島(現岐阜市)のうち五百石を扶助料としてあてがわれており(『聖衆来迎寺旧蔵文書』)、その時点では岐阜に住んでいたと思われる。その後、慶長五年八月の岐阜落城と前後して、近江に隠棲したのであろう。織田秀信は本能寺の変後、一時期安土城主であったことなどから、母である彼女にとって、そもそも近江はゆかりの深い地であった。

謎に包まれた素性

 それにしても、なぜ彼女の隠棲地が舅・信長による「叡山焼討ち」の記憶も生々しい門前町の坂本(現在の大津市坂本、下阪本、比叡辻は、中世の広域地名として「坂本」とも呼ばれた)だったのだろうか。それを考えるためにはやはり、徳寿院の素性をもう少し詮索しないではすまされないように思われる。

 実は同寺の過去帳に、彼女の名は見えない。したがって、享年や供養者などから生年や実家をたどることが不可能なのである。

 岐阜県の郷土史家である松田亮氏は、群書類従所載の『織田系図』の信忠の項に「塩川伯耆守摂州多田城主の女を娶る」とあることなどから、徳寿院が塩川国満の娘だとする研究を発表されている。塩川伯耆守国満は摂津国多田庄(現兵庫県川西市)の国人領主で、荒木村重が信長に背いて以後、信長に属して荒木方と戦った武将である。松田氏はさらに、川西市在住の塩川利員氏の家伝を根拠として、徳寿院の実名を「寿々(鈴姫)」であったと紹介されている。そうすると、彼女の俗名は塩川寿々(鈴姫)だったということになる。徳寿院は後年「一条殿北政所」になったという所伝(群書類従所載『荒木略記』)もあるが、聖衆来迎寺は幕末から明治期にかけて公家の一条家と関係が深かったので、その淵源が徳寿院に求められる可能性があるのかもしれない。

 ただし、岡山池田家文書に含まれる『織田家家譜』では織田信忠の室について「武田大膳晴信入道信玄女。法号信松院殿月峰永琴大禅定尼。元和二年四月十六日没」とし、なお疑問が残る。武田信玄の娘も信忠の妻であったようだが、法名が徳寿院とは異なることから、そちらは男子を生まなかったのかもしれない。

 森可成の娘説については典拠が不明だが、聖衆来迎寺には元亀元年(一五七〇)九月二十日「滋賀の陣」で戦死した可成が葬られ、開山堂近くの境内に現在も墓がある。可成は信長軍団の有力武将で、長可、成利(蘭丸)、坊丸らの父である。当時宇佐山城主であった可成は浅井・朝倉連合軍と下阪本地域で合戦、討死した。遺体は住持・真雄が密かに聖衆来迎寺に葬ったと伝えている。徳寿院の墓は可成墓の近くに存在することから、彼女が晩年、実父の墓の傍で息子の菩提を弔いながら隠棲していた姿は容易に想像できる。

 和田孫太夫の娘説は『美濃国古蹟考』の記述、進藤氏の娘説は「高野山悉地院過去帳」に信秀の母方の祖母を進藤氏としていることが理由であり、それぞれ決定的ではないが、さりとて否定するだけの積極的根拠にも欠ける。

 以上のようなことから、徳寿院は塩川国満の娘・寿々(鈴姫)であった可能性が高いが、なお断定できない状況である。とくに森可成の娘であったとする説には、彼女が聖衆来迎寺に隠棲した積極的な理由につながることから、説得力がある。

 なお、彼女が生んだ織田秀信は弟・秀則とともに関ヶ原合戦で西軍に属し、岐阜城籠城戦で奮闘した。戦後改易されて秀信は高野山へ追放、慶長十年(一六〇五)五月八日には高野山からも追い出されて、ほどなく死去したという。生存説もあるが、聖衆来迎寺に伝えられる織田秀信位牌では慶長十年七月二十七日に亡くなり、「当寺に葬る」とある。寺伝では、徳寿院墓の隣にある小さな石造五輪塔が、彼の墓であると伝えている。天下人・織田信長の嫡孫としては、あまりにも寂しい最期といえよう。

 徳寿院と織田秀信については、本当にわからないことばかりである。聖衆来迎寺に葬られたと伝え、肖像画まで存在するのに過去帳に記載がないのも不思議なことだ。想像をたくましくすれば、秀信は慶長四年(一五九九)に受洗をうけたキリシタン大名であったことから、母もまたキリシタンであった可能性があるのではないか。聖衆来迎寺は彼女の隠棲を受入れかつ死後に遺体を埋葬したが、仏式での供養は困難だったため、過去帳に記載されなかったのかもしれない。すべては謎に包まれている。湖畔の名刹・聖衆来迎寺にひっそりとたたずむ二つの墓石は、歴史を秘めたまま黙して語ることがない。

 (滋賀県教育委員会文化財保護課 井上 優)

  • 織田秀信(聖衆来迎寺蔵・琵琶湖文化館提供)織田秀信(聖衆来迎寺蔵・琵琶湖文化館提供)
  • 徳寿院像(聖衆来迎寺蔵・琵琶湖文化館提供)徳寿院像(聖衆来迎寺蔵・琵琶湖文化館提供)
  • 徳寿院墓(聖衆来迎寺境内)徳寿院墓(聖衆来迎寺境内)
  • 聖衆来迎寺本堂聖衆来迎寺本堂