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慈眼大師 天海

慈眼大師 天海
慈眼大師 天海

謎の快僧

 天海は徳川幕府の草創期にブレーンとして活躍した天台僧である。江の夫秀忠、子の家光、義父の家康という徳川三代の将軍の帰依を得て、幕府の朝廷政策や宗教政策に深く関与したことが知られる。当時ともに活躍した臨済僧に「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝があり、天海はこの崇伝に対し、時として猛烈なライバル意識をいだいたという。その背景には、崇伝の出自(足利一族の名門一色氏の出身)に対するコンプレックスがあったらしい。

頭角をあらわす

天海は陸奥国高田(福島県大沼郡会津美里町)の出身といい、戦国大名葦名氏の一族、あるいは将軍足利義澄の落胤説がある一方、天海は弟子たちに自らの出自を語らなかったといわれる。事実、天正16年(1588)に武蔵国無量寿寺北院(埼玉県川越市)に移って天海と号するまで、その足跡は謎に包まれている。

こうした天海が家康の知遇を得た時期は天正18年頃といわれる。同年の豊臣秀吉による北条攻めでは徳川家康の陣中にあったといい、慶長4年(1599)に無量寿寺北院の住職となった頃から、家康の信任を得て次第にブレーンとして活躍するようになった。そして、慶長17年(1612)には無量寿寺北院を再建し喜多院と改めて関東天台の本山とし、慶長18年には家康から日光山貫主に任じられている。

崇伝をしのぐ

元和2年(1616)、徳川家康が駿府(静岡市)で没すると、遺命によりその遺骸は直ちに久能山(静岡市)に葬られ、翌3年には下野国日光(日光市)へ改葬された。このとき、天海は家康の神号をめぐって、崇伝と対立し勝利した。すなわち、天海は山王一実神道によって「大権現」、崇伝は吉田神道によって「大明神」として祀ることを主張して論争するなか、天海は秀吉を「豊国大明神」として祀った豊臣家が滅亡したことを引き合いに「大明神」号は不吉とした。結局、このことが秀忠に認められ、家康は天海の主張どおり「東照大権現」として祀られたのであった。

元和8年(1622)、こうした活躍もあって天海は、秀忠から江戸忍ヶ岡(現在の上野公園)に寺地を与えられ、寛永2年(1625)から寛永寺の建立に着手した。当時、徳川家の菩提寺は増上寺であったが、家光が天海に深く帰依したので、寛永寺もその菩提寺として位置づけられるようになった。

江戸にあらわれた近江

天海は比叡山で天台宗を学んだといい、慶長12年(1607)には家康の命を受けて延暦寺南光坊に入り、織田信長の焼き討ちにあった比叡山の復興に尽力している。寛永寺は、こうした天海が江戸に構想した天台宗の拠点となる大寺院であった。天海の思いは、東叡山寛永寺という名称によくあらわれている。つまり、東叡山という山号、寛永寺という創建当時の元号寺号は比叡山延暦寺を模してのことであった。あわせて、天海は不忍池を琵琶湖に見立てて竹生島になぞらえた中之島をつくり、弁財天を勧請して祀っている。これは琵琶湖が「天台薬師の池」と謳われたことにかかわるのであろう。

近江にのこされた足跡

元和元年(1615)、天海は後陽成天皇から京都法勝寺を賜り、これを比叡山の門前町坂本に移築した。滋賀院がこれであり、近接する日吉東照宮は天海を導師として、日光東照宮にさきだつ寛永11年(1634)に遷宮式が執行されている。また、聖衆来迎寺(大津市比叡辻)の客殿・開山堂なども、天海の尽力によって復興している。さらに、仁正藩(滋賀県蒲生郡日野町)の藩主市橋長政は天海に書状を送り、「先年、浄土宗浄厳院と天台宗桑実寺(ともに近江八幡市)との間で出入があったが、もしまたそのようなことが起きたら、桑実寺のことをよろしく取りなしてほしい」(東南院文書)などと依頼している。

寛永20年(1643)10月2日、天海は没した。生年は不明確ながら、長命であったことは確かであり、謎の快僧にふさわしく享年108歳であったという。慶安元年(1648)に朝廷から慈眼大師の諡号を賜与されたことから、廟所は慈眼堂と呼ばれる。慈眼堂は日光輪王寺、川越喜多院、そして坂本滋賀院門跡の三所に営まれた。将軍家と親しい天海は絶大な権力を背景に、近江各地でも様々な活動をおこない、足跡をのこしたのであった。聖衆来迎寺には、天海自賛の画像や数々の遺品が伝えられている。

(滋賀県教育委員会文化財保護課 北村圭弘)

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