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京極龍子

松の丸殿
松の丸殿
(浄土宗西山深草派総本山
誓願寺蔵)
関係図
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京極龍子は、北近江を支配した名族京極家の当主高吉と、北近江の有力国人浅井久政の娘(マリア)との間に生まれた。京極高吉・マリア夫婦の間には男子二人、女子三人の五人の子供がいたが、龍子は兄高次(弟とする説もある)に次ぐ二番目の子にあたる。はじめ若狭の守護武田義統の子元明に嫁いだが、本能寺の変で元明が明智光秀に与したため、羽柴秀吉に殺されると、その出自と美貌のため秀吉に召し出され、側室となった。後に大坂城西の丸に屋敷を与えられると「西の丸」と呼ばれ、伏見城完成後は城内松の丸に移り住んだことから「松の丸」と呼ばれるようになった。秀吉没後は京都に隠棲し、寛永11年(1634)に西洞院の屋敷でその生涯を終えた。

この龍子と茶々たち浅井氏の三姉妹とは従姉妹同士にあたる。その縁もあってか、北の庄落城後は、龍子が茶々たちの面倒を見ていたともいわれている。北の庄落城後の三姉妹の動向については、秀吉の庇護のもと大坂にいたとするもの、信長の弟長益(有楽斎)に預けられたとするものなど諸説あるが、その血縁から見て龍子に保護されていたというのはあながち否定すべき説ではないだろう。その場合、預けられていた場所については、京都と安土の二説がある。小和田哲男氏は、秀吉が三姉妹が織田氏の血縁であることを重視し、織田家の家督とされた三法師がいる安土城に置いたのではとしている。しかし秀吉が自分の側室を織田家の居城である安土城に住まわせていたとは考えにくい。いずれにせよ、確かな資料は存在せず、推測の域を出るものではない。

ところでこれまで龍子のことを秀吉の側室と記してきたが、最近、こうした見方に再考を促す研究が現れた。福田千鶴氏はその著書『淀殿』(ミネルヴァ書房 2007年)の中で、秀吉の妻は一人ではなく、淀殿をはじめ、これまで側室とされてきたものの中にも妻とすべき女性がいることを主張している。秀吉の正室は御存知北政所寧であるが、彼女以外を皆側室と呼ぶのは、現在の一夫一妻制にもとづく見方であり、当時は天下人たる地位にある秀吉なら複数の妻がいても差し支えないというのである。実際、龍子についても『寛永諸家系図伝』には「秀吉の北方。松の丸殿と号す。」と書かれており、いまだ豊臣時代の記憶が残る近世初期には龍子は秀吉の「北の方」すなわち妾ではなく妻の地位にあるという認識が存在したのである。茶々についても、享保末年(18世紀初頭)に成立した歴代将軍の御台所・生母など大奥女性の事歴を記した「柳営婦女伝」には「太閤秀吉室」と書かれている。同じ系図に初は「京極若狭守高次室」と書かれていることから見て、側室ではなく室、すなわち妻という認識だったことがうかがえる。また有名な醍醐の花見において秀吉に供奉した御輿の順序は「一番政所さま、二番西の丸さま、三番松の丸さま、四番三の丸さま、五番加賀さま、六番大納言殿御内」(『太閤さま軍記のうち』)であり、北政所・茶々・龍子の序列があったことが分かる。先の認識とあわせ考えると、少なくともこの三者については秀吉の妻であったと見てよいのではないか。ちなみに四番目の三の丸さまは織田信長の娘、五番目の加賀さまは前田利家の娘摩阿、六番目は利家の正妻まつであるが、福田氏は三の丸・加賀についても秀吉の妻としている。

ちなみに、この時茶々と龍子との間で席次めぐる争いが起こっている。秀吉から盃をもらう順番を二人が争い、北政所とまつが仲裁したという有名なエピソードであるが、話しが出来すぎという気がしないでもない。この話は前田利家の御伽衆村井勘十郎長明が記した見聞録に記されているが、醍醐寺内には限られた人数しか入れなかったことから、村井がその場にいた可能性は低い。このエピソードの裏には、北政所と茶々とが対立していたという前提があり、かかる前提のもとで創作された話しである可能性が高い。

また秀吉は、天下統一戦において、自身の側室を陣中に伴っている。小田原征伐時には茶々を陣中に呼び寄せているが、文禄の役の時、名護屋へ出陣した際には龍子を伴っている。この時の様子を太田牛一が著した「太閤さま軍記のうち」では、「関東御陣・筑紫御陣、いかほどの御心をつくさせられ。しかしながら、御しあはせよく、いずかたも御心のままにおほせつけられ、御しあはせよき御かたさまなり。大坂西の丸御殿をたてをき、一所をかまへをき申され候なり。」と記している。関東御陣とは小田原出陣、筑紫御陣とは名護屋出陣を指すが、いずれの陣中においても心を尽くし、どのように命じられてもうまく対応したとその功績を称え、その後大坂城西の丸に独立した御殿をもらったとしている。こうした史料からは、龍子が秀吉の奥向きを代表して活躍していた様子がうかがえ、彼女が側室を超える立場にあったことが推測できる。

この後、実際に龍子が大坂城西の丸御殿に移ったのは文禄三年(一五九四)のことである。この年の四月に宇喜多秀家邸を訪れる面々として「北政所・二丸様・御ひろひ様・京極様」の名が見える。二丸様とは茶々、御ひろひ様とは後の秀頼のことである。龍子は北政所・茶々に次ぐ女性として名前があがっており、ここでも他の女房衆とは一線を画する特別な存在として扱われていたことがうかがえる。

その後伏見城が完成すると、龍子は本丸の北東に松の丸という独立した郭を与えられ、ここに住むようになった。そのため以後は「松の丸殿」と呼ばれるようになる。そして秀吉の死後、伏見城は徳川家康の管理下におかれ、龍子は伏見城を出て兄京極高次の居城大津城に移った。

龍子の兄高次は、『寛政重修諸家譜』によれば、本能寺の変の時は明智光秀に与して長浜城を囲んだとされる。『諸家譜』はその理由について「また近江国を我手に属せしむとはかり」と記しており、名族京極家の復興を企んだ故としているが、光秀が滅んだため、秀吉に追われ、堀秀政によって密かに追っ手を逃れた後、柴田勝家のもとに逃げ込んだ。勝家が滅んだのちは、妹龍子の縁で若狭の武田元明のもとを頼ったが、元明が秀吉に誅せられると、龍子が側室に召し出されたこともあって秀吉に許され、仕えるようになった。秀吉に仕えてのち高次は、大溝城1万石、八幡城2万8千石と順次加増を受けて、ついには大津城6万石を領し、大津宰相と呼ばれるまでに出世を遂げる。高次の妻は浅井三姉妹の次女、すなわち秀吉の側室茶々の妹初であり、高次と秀吉とは二重の意味で閨閥に連なっている。二度までも秀吉と敵対しながら、たいした戦功もないままに出世を遂げた高次を、妻や妹の尻の光のおかげで出世したとして、人々は揶揄して「蛍大名」と呼んだという。しかしながら、関ヶ原合戦に先立つ大津籠城戦において、高次は西軍の進撃をくい止め、多くの軍勢を関ヶ原に行かせなかったとして、大津城を守りきれなかったにも関わらず、その功績を徳川家康に認められている。

ちなみに、この大津籠城戦を終結に向かわせたのは北政所と淀殿である。北政所は孝蔵主を、淀殿は饗庭局と高野山の木食応其上人を使者として派遣し、東西両軍に停戦を勧告したのである。それを受け入れた高次は城を明け渡し、龍子もまた城から救出されたのである。従来、反目しあっていたとされる北政所と淀殿であるが、近年の研究では両者が連携して豊臣家を守ろうとしていたことが明らかにされており、この大津開城に向けての動きも両者の連携の一つである。

大津城から救い出された龍子はこの後京都で余生をおくる。茶々に仕えていた女中「おきく」の記憶をまとめた「おきく物語」は大坂城落城の様子を生々しく伝えているが、実はこの「おきく」が、大坂城を脱出した後頼ったのが龍子なのである。「おきく」は大坂城を脱出する際、和睦の使者として城内にいた常高院(初)が大坂城を脱出しようとするのと出会い、行動をともにする。脱出後、常高院のもとには徳川家康からの迎えが来たが、他の者たちには皆望みの場所に行くようにとの上意が下されたので、「おきく」は京都にいる龍子を頼ることにしたのである。途中織田有楽斎の子左門の家に立ち寄り、龍子の所に向かった。その後「おきく」は龍子に奉公した後、弟を頼って備前に下っている。

こうして晩年を迎えた龍子は寛永11年(1634)、その生涯を閉じた。その墓所は当初、自身も深く帰依し、またその中興に深く関わった浄土宗西山深草派総本山誓願寺の境内に設けられたが、明治34年(1900)、豊国廟境内に移築された。

(滋賀県教育委員会文化財保護課 松下 浩)

  • 清滝寺三重塔清滝寺(京極氏墓所・米原市清滝)
  • 宝幢院武田元明墓武田元明墓(宝幢院・高島市海津)