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春庭慈芳

春庭慈芳像(穀屋寺蔵)
春庭慈芳像(穀屋寺蔵)

長命寺の復興勧進に活躍

春庭慈芳(しゅんていじほう、一四九二〜一五四七)は、長命寺の戦国期復興に力をつくした尼僧である。

永正十三年(一五一六)八月、近江守護職・六角高頼と重臣・伊庭貞隆の一族が戦った第二次「伊庭の乱」の戦火に巻き込まれ、長命寺は本堂をはじめとする堂塔坊舎をことごとく焼失した。住僧らは翌年から勧進活動を始め、八年後の大永四年(一五二四)八月に本堂を復興させている。

勧進(かんじん)というのは、堂塔の再建・修理や維持管理に必要な経費の寄附を募る行為のことである。西国観音霊場第三十一番札所として知られる長命寺(滋賀県近江八幡市)には現在、本堂、三重塔、鐘楼、護摩堂(以上重要文化財)、三仏堂、護法権現社拝殿及び渡廊下(以上県指定有形文化財)と中世の寺院建築がずらりと立ち並び、わが国有数の文化財景観が見られる。それらは「伊庭の乱」のあと、十七世紀の初頭までに順次再建復興されたものであり、復興の資金は主として勧進活動によって得られた寄附によっていた。

その勧進活動の拠点となったのが、「穀屋」と呼ばれる山内役所である。「穀屋」は一般に霊場寺院等の附属施設として見受けられ、参詣者からの奉納物を納めたり、堂塔修理のための勧進を行う機能を担った。長命寺穀屋もまた、十六世紀以降に長命寺復興の勧進を担ったのであるが、その主役となったのが勧進比丘尼、すなわち女性の宗教者たちであったのは珍しい。彼女らは「勧進状」や「参詣曼荼羅」などを携帯して諸国を巡遊し、各地で長命寺の由緒を語ったり参詣曼荼羅の絵解きなどをおこなって、復興への助力を訴えたのであった。そのリーダーとして活躍したのが本願・春庭慈芳尼であり、今なお長命寺山麓に所在する寺院「穀屋寺」の開山として偉大な功績が語り伝えられている。

穀屋寺に伝わる春庭慈芳の木像を見ると、堂々たる体躯に落ち着いた表情で表現され、大事業をなしとげた女性の風格が伝わってくる。また、「長命寺参詣曼荼羅」(長命寺蔵)の中に描かれた、勧進杓を振る比丘尼も春庭慈芳であるといわれており、そうであるとするとまさに彼女の精力的な「仕事ぶり」が、そのまま絵に表わされたものといえそうである。

浅井氏の娘といわれてきたが・・・

滋賀県指定有形文化財の『長命寺文書』(長命寺蔵)の中に、興味深い古文書が含まれている。春庭慈芳の出自について「浅井備前守(長政)様御娘子ニ御座候」と説明しているのだ。浅井長政の娘として知られているのは茶々(淀殿)、初、江の三姉妹であるが、実は春庭慈芳を加えて四姉妹であったことになる。別の文書では、浅井亮政の姉妹にあたるという説も紹介されているが、いずれにしても「浅井の姫」と伝えていた。

春庭慈芳の弟子筋にあたる江戸時代の長命寺穀屋比丘尼たちは、春庭が江の縁者であったという伝説を利用して、幕府大奥へと布教活動の手を伸ばした。『長命寺文書』には大奥女性と穀屋比丘尼との間で交わされた大量の書状類が伝えられている。それによると、彼女らはたびたび江戸へ出向き、大奥の女性たちに長命寺のお札やお守り・扇子・白粉や紅などを贈り、大奥からもお礼として仏前に「御紋附打敷」が寄進されたり、「御台様」から白銀が下賜されることもあった。親密な交際の根拠は、穀屋の開山・春庭慈芳が二代将軍徳川秀忠の御台所であった崇源院こと江の縁者であるという伝承によっていたのであり、「此御由緒ヲ以テ御公儀様江御札献上仕候」(その縁で幕府へ祈祷札を献上しております)と説明されていた。

その説が史実ならば面白いのだが、二〇世紀に入って春庭は浅井氏の娘でなかったことが判明した。昭和五十四年(一九七九)長命寺本堂に安置される木造釈迦如来坐像が調査された際に、偶然像内から納入文書が見つかった。文書は釈迦像造立の由緒を語った願文(がんもん)で、「前本願越前之国織田之九郎左衛門尉息女春庭慈芳」の後をうけた弟子らが勧進を続けて、春庭没後二十六年目に完成させたことが記されている。春庭慈芳は湖北浅井氏ではなく、越前織田氏のむすめだったのだ(『長命寺参詣曼荼羅のてびき』平成二十一年、近江八幡市立資料館)。

織田九郎左衛門尉についてはあまり良くわかっていないが、織田信長を含む織田一族の発祥地・越前織田氏の系譜に連なる武士であることは間違いない。ただ、後世にそのことが忘れられていたことに表れているように、春庭慈芳尼は自身の出自を強調しなかったものと考えられる。実家である越前織田家とは無関係に、彼女自身の能力を最大限に活かして、諸国のあらゆる身分・階層・年齢の男女から幅広く寄附を集め、何もかもを失くした霊場・長命寺の災害復興に最大の功績をのこしたのである。弟子にあたる勧進比丘尼集団からも敬慕を集め、開山本願と仰がれていく。天文十六年(一五四七)十二月に亡くなり、山麓の西方寺に葬られた。数え年三二歳であった。

働く近江女性のさきがけ

日本の歴史上、著名な女性は多くいるが、それらの多くは「○○の母」、「××の妻」もしくは「△△の娘」というぐあいに、男性有力者との血縁・配偶関係を前提として、男性を蔭で支える「裏方」として力をふるった人物が大半である。

春庭慈芳は越前織田氏という武家の娘に生まれたには違いないが、「織田氏の娘」としての属性によってではなく、ひとりの独立した人間として社会に進出した。彼女は長命寺に属する女性宗教者として勧進比丘尼集団を率い、諸国をまたにかけて活躍したのだ。おのが自身の才能と行動力により社会事業をなしとげ、没後四六〇年以上たった今日も、長命寺山麓に所在する穀屋寺の開山として仰がれている。

その人生は、厳しい現代社会に生きる、働く女性たちにとっても大いに励ましとなるものであろう。文化財の宝庫である長命寺の立派な中世伽藍を拝観するときには、ぜひとも元気な近江女性のさきがけというべき、春庭慈芳のことにも思いを馳せてほしい。

(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 井上 優)

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  • 春庭慈芳画(長命寺参詣曼荼羅部分)春庭慈芳画(長命寺参詣曼荼羅部分)
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