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宗栄尼

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宗栄尼・長と山岡一族の女たち 

戦国女性の底力

水原長(みずはら・おさ、一五五三〜一六二三)は、近江瀬田城主・山岡景隆の妻であった。山岡景隆といえば天正十年(一五八二)、本能寺の変で織田信長を倒した明智光秀の誘降をことわり、瀬田橋を焼いて安土城への進軍をふさいだことで知られる。そのとき、長は三〇歳。夫と義弟(景佐)は瀬田城中で謀反の報に接し、明智につくか敵対するかの決断を迫られた。一族の命運のかかった緊迫の場面に、おそらく彼女も立ち会ったことであろう。

長はしかし、瀬田川の西岸に陣取る明智の大軍を目にしてなお、意外な落ち着きをみせたのではないかと、筆者は想像する。彼女にとって山岡景隆との結婚は、実は初婚ではなかった。彼女は前夫と死別しており、乳飲み子をかかえて景隆のもとへ再嫁したのである。人生のピンチをすでに経験済みの彼女は、きっと腹をすえて静かに夫の決断を待っただろうと想像される。

長のことは今まで広くは知られてこなかったが、実名が明らかで人生の歩みをひととおり追うことができる。彼女の息子や親族らは歴史上で活躍し、やがて幕府に仕えて江戸へ移住するが、自身は一人近江国内に残り静かながら威厳のある余生を送った。死後、隠居所は寺となって、肖像画も残されている。戦国を生きたたくましい女の典型として、もっと知られてよい人物であろう。

生いたちから二度の結婚へ

ここで改めて水原長の人生を追いたい。生まれたのは天文二十二年(一五五三)。父は水原秀清(一五三四〜八二)、母は不明だが、弟と同じ平井綱景の女(一五三六〜八三)であった可能性が高い。父二〇歳、母一八歳のときの子どもであったことになる。ひとつ違いの弟に重澄(一五五四〜一六〇〇)がいるが、彼はのちに山岡氏と行動を共にしていく。

水原氏はもともと六角氏譜代の家臣として蒲生郡豊浦郷を領していたが、永禄十一年(一五六八)の織田信長侵攻を受けて六角氏とともに観音寺城を退散した。長の祖父・重久は元亀元年(一五七〇)の野洲川合戦で織田軍に敗れ、三雲定持ら多くの武将とともに討死した。父・秀清も浪人を余儀なくされたが、このとき長はすでに一八歳になっていた。父は天正五年(一五七七)にいたり、信長に訴望してようやく安土城下となった旧領豊浦の地に百貫の地を安堵されたのだという。この間、父の浪人時代に長は初めての結婚をしたものとみられる。相手は、栗太郡関津城主・宇野清治の二男、宇野源之丞国治であった。関津の宇野氏は、代々通称に「源」、実名(諱)には「治」の字をそれぞれ用いた(『近江栗太郡志』)。関津城跡は、平成二十一年(二〇〇九)から発掘調査が進められ、土塁に囲まれた三ヶ所の曲輪跡から礎石建物などの遺構が検出され、五三桐文などをあしらった屏風の押縁や、鉄砲の弾、鎧の部品、輸入陶磁器などバラエティに富んだ遺物が出土している。十六世紀後半期のものと見られる豊富な出土品からは、城主一族の豊かな生活ぶりが如実にうかがえ、長が嫁いだ時代の関津宇野氏の暮らしが、活き活きとよみがえってくる。信長の近江侵攻いらい、苦労を重ねてきた長がようやく手に入れた幸せを、われわれは偶然にも、出土品からかいま見ることができたのだ。

しかしながら、長の幸せはその名のようには長く続かなかった。宇野国治の嫡男・右近を生んだのもつかの間、夫の国治がはかなくも死去してしまったのである。長はここでどういうわけか、数え年二歳の乳飲み子をかかえて宇野氏を去り、瀬田城主・山岡景隆(一五二四〜八五)のもとに再嫁した。景隆はすでに五〇歳代で前妻(死別したのであろう)との間に子どももたくさんあったが、長の連れ子・右近を養子にして山岡姓を名乗らせている。山岡右近景興はのちに、脇坂安治の家老となり朝鮮出兵などに活躍、高千石をあてがわれた。

瀬田城主の妻となった長は、天正四年(一五七六)に景隆の末子・景以を生んだ。これによって長は、山岡一族の中に確かな地歩を得ることになる。この時期、瀬田城主山岡景隆の姿は『信長公記』にひんぱんに現れる。天正三年、信長の命で瀬田橋の架橋奉行を勤めたのを皮切りに、天正五〜六年の上洛に伴う往還のたびごとに、信長は瀬田城に宿泊しているのである。天正四年に内大臣に任官したときは石山寺世尊院に参詣しているが、そのときの饗応役も山岡景隆兄弟であった。それらの「お成り」にあたって、裏方で忙しく動き回る長の姿があったに違いないと、筆者は想像している。

そして天正十年(一五八二)六月二日、本能寺の変を迎えた。明智勢はその日のうちに瀬田へ打越し、山岡景隆に「同心」を迫った。ところが山岡兄弟は「信長公の御厚恩浅からず、忝なきの間、中々同心申す間敷」として拒絶、瀬田橋を焼き落とし、居城に火をかけて山中に引きのいたとされる。しかしながら実のところ、山岡氏は明智光秀とは昵懇の間柄であった(『兼見卿記』)。明智側としては意外な抵抗に遭った思いだったに違いない。山岡が明智の安土城入城を遅らせたことが、結果的に羽柴秀吉による「中国大返し」の奇跡を生んだのである。

山岡氏は瀬田城を退いたが、なおも堀秀政らと結んで明智秀満に対するゲリラ戦を展開した。長の弟、水原重澄も明智左馬助と交戦したが利を失って豊浦(安土)から退散し、その後は山岡景隆の扶助を受けて大和宇陀の地に蟄居したという。長の実家・水原氏も明智に抗戦したことがわかる。水原氏は安土城下に住していたと考えられるので、長としては明智の進軍を瀬田で食い止めることが実家を守ることにつながった。元来明智と仲の良かった山岡氏が決然として立ちはだかった真の理由は、長の実家を守るためだったのではないか、徹底して彼女の目線に立てば、そんな歴史像も浮かんでくる。

愛息の成長と秀次事件

天正十一年(一五八三)、山岡景隆は柴田勝家に内通した疑いにより、羽柴秀吉から城と領地を取り上げられた。秀吉政権の下で、山岡氏苦闘の時代が始まったのである。瀬田城主二万三百石の跡を襲ったのは、秀吉一門衆の浅野長吉(長政)であった。長の動向についての史料はとぼしいが、夫・景隆の蟄居に連れ添ったのであろう。

景隆は天正十三年、失意のうちに甲賀毛牧で六一歳の生涯を終える。長は三三歳で再び未亡人となり、以後は「山岡後家」と呼ばれた。「後家」という言葉は、当時は亡夫の財産や権利を継承する未亡人として誇りある呼び名であり、正式な古文書の中でもそう書かれている。彼女はまた、当時の慣習として剃髪出家して尼となり、「宗栄尼」の尼号をもっても知られるようになったのである。天正十九年四月廿三日付けで「山岡後家」に宛てられた豊臣秀吉朱印状(『山岡文書』)には、近江国栗太郡下笠村のうち五十石を扶助する旨が記されている。長は所領となった下笠村(草津市下笠町)に庵を結び、夫の菩提を弔う日々に入った。宗栄尼の存在は、山岡一族の象徴として不遇時代の彼らの精神的支柱となったであろう。その後の一族はというと、亡夫に代わって彼女の愛息・景以が、豊臣政権に仕えて活躍するようになっていく。

天正十六年(一五八八)、一三歳の山岡景以は豊臣秀次の小姓として出仕した。その後順調に出世した景以は、秀次失脚の文禄四年(一五九五)までに三千石を知行、従五位下という大名クラスの官位を得た。弱冠二〇歳の若さで頭角をあらわし、山岡氏を代表する武士に成長した景以であったが、当然ながら彼の出世は豊臣秀次の寵によるものであった。それだけに、秀次事件で主君が粛清されたときに彼自身の身の上も、極めて危険な状態に置かれた。謀反の疑いをかけられた関白秀次は、聚楽第から太閤秀吉のいる伏見城に呼び出されたが、対面をゆるされることなく剃髪し、高野山へと登らされた。石田三成が認めた高野山行の供奉者は、わずかに騎馬武者二〇騎、歩兵一〇人のみ。その中に、山岡景以の姿があった。景以は主君自刃の直前まで側近くに仕えたのである。

ともに供奉した武将の多くがそこで切腹している事実(『甫庵太閤記』)からみても、景以が高野山から生還したのは奇跡的といってもよい幸運事だったのだろう。景以生還の詳しい経緯は不明だが、母・宗栄尼は愛息の運命についてよほど気を揉んだにちがいない。さりとて、太閤秀吉の絶大な権力の前で、何らなすすべのないことは明らかであった。戦国の武将には、常に死の危険が隣り合っている。戦国の女にもまた、心休まる日などなかったといえるだろう。

関ヶ原合戦と山岡一族

だからこそ、長は戦国乱世に終止符を打つことを望んでいたに違いない。慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦は、まさに山岡氏が仕掛けた「平和の闘い」としての側面があったと、筆者はみている。関ヶ原合戦の勝敗を決したのは山岡氏だ、というのは間違いなく一面の真実なのだが、残念ながらまだその事実は一般化されていない。ゆえに読者のみなさんにとって唐突感は否め得ないであろうが、ぜひ知っていただきたい。

関ヶ原合戦のキーマンは、山岡道阿弥(景友、一五三九〜一六〇三)であった。景隆と同母の弟で、初め出家して暹慶と号し、園城寺光浄院の住職となった。母が和田惟政の娘であったからか、僧侶の身で惟政が擁立に一役かった将軍・足利義昭に仕える。『耶蘇会士日本通信』に「将軍の寵臣」とされ、元亀三年(一五七二)には還俗して山岡景友と称して上山城守護職に任じられた(『兼見卿記』)。元亀四年、義昭が信長に叛旗をひるがえしたときは近江石山城に籠城して戦うが、明智光秀・柴田勝家らの攻城軍に説得され開城。赦されて織田信長に仕えた。本能寺の変後は織田信雄に従い小牧長久手合戦で秀吉と交戦したため、一時失領したようだが、のち再び剃髪して道阿弥を名乗り、豊臣秀吉のお咄衆(お伽衆)に加えられた。慶長四年、秀吉の死後徳川家康に急接近、家康に近仕するようになった。同五年の上杉攻めでも家康と行動を共にし、有名な「小山評定」のリード役をつとめたのが、実は道阿弥であった。

「小山評定」というのは慶長五年(一六〇〇)、下野国小山(栃木県小山市)の陣中で開かれた軍議のことである。当時、徳川家康は上杉景勝攻めの兵を率いて会津に向かう途中であったが、七月二十四日に石田三成が上方で挙兵した報がもたらされたため、翌二十五に急遽会議が開かれた。会津討伐軍には徳川一門の徳川秀忠・結城秀康、家康譜代の家臣である本多忠勝や井伊直政らのほか、福島正則、池田輝政、山内一豊ら豊臣恩顧の大名らも多く参加していたため、今後の対応について軍議をこらす必要が生じたのである。

軍議では冒頭、山岡道阿弥が三成の挙兵について説明し、諸将の意見を求めた(『古事談』)。大坂城には会津従軍諸将の妻子が残されており、石田方の人質同然の状態であった。したがって彼らの向背進退は各自の自由に任せる旨を伝えたのである。評定の場に家康は姿を見せておらず、道阿弥は家康の代わりに、この緊迫した会議の口火を切ったのであった。それに対して、福島正則、黒田長政らが率先して発言し、大坂のことを顧慮せず二心なく家康に味方し、三成らを討伐する存念であると表明した。さらに山内一豊が発言を求め、わが居城・掛川城を家康に進上し、自由に差配されたいと申し出ている。一豊の思い切った発言にならい、他の諸将も相次いで居城の進上を申し出たため、豊臣系大名が配置されていた東海道筋の諸城は労せずしてことごとに家康の手に入ることとなった。山内一豊の発言がなければ、関ヶ原への迅速な大兵力の移動は不可能だったろう。「小山評定」を象徴する有名なエピソードであり、当時六万石の外様小大名にすぎなかった山内一豊が、関ヶ原本戦において格別な戦功をあげぬままに、戦後に土佐一国二十四万石を与えられた最大の理由と考えられている。

ところが、この有名な山内一豊の発言も、山岡氏からの視線で見ればかなり仕組まれた発言であった可能性が高い。一豊には何と、かつて山岡景隆の家臣だった経歴があるのである。尾張国出身の一豊は周知のとおり、父を織田信長に討たれて浪人の身となった時期がある。その後に身を寄せ二百石を給付されたのが、近江山岡氏だったのだ。道阿弥が旧知の一豊相手に軍議の下工作を行った可能性は、極めて高いといえるだろう。徳川家康ほどの策士が、根回しもなしに「出たところ勝負」で諸将の意見を求めることなどあり得ない。司会者・道阿弥と回答者・山内一豊の間では、すでに軍議の「リハーサル」が済んでいたと見るのが自然で、両者の間にはそれのできる関係性が存在していたのだ。余談ながら、瀬田城主・景隆の未亡人として、宗栄尼も山内一豊のことをよく知っていたに違いない。

これだけでも山岡道阿弥が徳川家康の天下掌握に貢献したことは明らかだが、話はまだ続く。関ヶ原合戦本戦の趨勢を最終的に決したのが小早川秀秋、脇坂安治ら「内応軍」による裏切り行為であることは、つとに有名である。彼らは「内応」の名の通り、合戦前にそれぞれ徳川家康と文書を通して気脈を通じていた。小早川秀秋へは浅野幸長と黒田長政の連署書状(徳富蘇峰『近世日本国民史・関原役』)により、脇坂安治へは家康から直接の御内書(『脇坂家文書』)により。いずれも冒頭近くに「山道阿弥(山岡道阿弥)」の名が記され、彼らへの内応工作を担ったのが道阿弥であったことを明確にしている。道阿弥は、小早川の元へは二人の使者を送って家康が「先書に申し入れがた」かった事を述べさせた。脇坂については、先方から道阿弥を通して家康に出された手紙を取り次ぎ、「安心せよ」という家康の直状を出させた。ここで約束された「忠節」が、関ヶ原合戦での最終局面を家康の勝利に導いたのは間違いない。幕府の正式記録である『徳川実記』に大名に列しなかった道阿弥の卒伝を載せ、その中で彼を徳川家「創業の功臣」と評価しているのは、決して大げさではない。ちなみに、関ヶ原での内応軍は他にも朽木元綱・小川祐忠・赤座直保がいたが、彼らは戦後ひとたび所領を没収されている。その後赦されてはいるものの、「道阿弥の手形」を持たぬ者は、正式な内応軍と見なされなかったことを示しているのだろう。

道阿弥自身は家康の身辺に扈従しながら、西国にいて三成軍と行動を共にしていた小早川と脇坂を密かに寝返らせていた。そのような離れ業が可能だったのには、背景がある。ここで山岡氏系図に注目すれば、山岡景隆の子に、小早川秀秋の臣・権九郎と、脇坂安治の臣・景興のいたことがわかる。山岡権九郎のことはのちに小早川家が改易されたこともあって詳らかでないが、右近景興はまさに、宗栄尼が前夫との間にもうけて山岡家に連れてきた長男その人である。彼は朝鮮出兵で戦功を挙げ、千石取りの重臣として脇坂安治・安元父子の信頼が特に厚かった。家康の意を汲んで内応工作を主導したのは山岡道阿弥であったが、内応軍内部でも山岡一族出身の家臣が工作に一役買ったであろうことが推測できる。他にも池田輝政の重臣・景好、伊達政宗と親しかった宇治茶師・上林牛加が景隆の子。一族には他にも、加藤清正のち結城秀康の臣となった山岡景猶父子、藤堂高虎の臣・景重、伏見城籠城戦に参加した景光(甫庵)・水原重澄らがそれぞれの立場で一様に家康方として働いていた。一時大和国に蟄居していた宗栄尼の実弟・水原重澄も山岡一族とともに伏見城に籠城して三成方と戦ったが、討死してしまったようだ(『水原系図』)。宗栄尼にとって、「徳川の平和」は多くのものを犠牲にしてようやく得ることのできた、待望の平穏だったに違いない。

戦国の子育て論

「女房衆は頭を剃り、二人の子どもを取り育て、不憫がられ人となさるべく候」。
山岡道阿弥が定めた山岡一族の「子育て法」である。戦国の世を類まれな結束力と果敢な軍事行動で乗り切った山岡一族には、父親を亡くした子や寡婦が多かったものと思われる。そこで一族の女性は剃髪出家し、おのおの二人の子どもを養育して一人前とするよう、決めたのであった。山岡一族の女たちの中には和田惟政の娘(景隆・道阿弥らの母)、佐々成政の娘(景以の妻、景本の母)といった大名家クラスの出身者もいたが、いずれも生家は滅び、戦国の悲劇を体現していた。宗栄尼自身も戦国の動乱に翻弄された人生を歩んだことから、この「子育て法」も実は彼女の発案になるものだったかもしれない。彼女の実子は二人だったが、一族の子弟多数を愛情の元に育て後援した結果、彼ら山岡一族の堅固なネットワークが関ヶ原合戦の東軍勝利を決定づけた。山岡家のグレートマザーは、まさしく母の力で近世の平和を生み出したといえるのかもしれない。

同じ遺言の中で道阿弥は、わが娘である「お藤」を、景隆と宗栄尼の孫にあたる「小なへ(景本)」と結婚させ、「ひとつにして」家を継がせるべきことも強調している。家康に天下を取らせた男・道阿弥ですらが、宗栄尼の子孫こそが山岡家の正統を継ぐ者であるという認識を強く抱いていたのである。道阿弥は甲賀組を率いて九千石の大旗本となり、江戸に住んだ。一方、宗栄尼は元和九年(一六二三)七一歳の生涯を近江国栗太郡下笠村に終え、同地に葬られた。法号は知光院賢誉宗栄。隠居所の草庵は浄土宗寺院に改められて「宗栄寺」と号され、今に法灯を伝えている。戦国の世を生ききった一人の女性の生きざまから、現代の男女も大いに学ぶべきところがあるのではないだろうか。

(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 井上 優)

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