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おね

おね
高台院像(高台寺掌美術館蔵) 関係図
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於禰(おね)

「おね」または「ねね」と呼ばれ、後に北政所と称された豊臣秀吉の正室。正しくは「寧子」の文字でもわかるとおり、名は「ね」である。「ね」を重ね「ねね」。「ね」に敬称の「お」がついて、「おね」と呼ばれるようになったと云われている。父は杉原助左衛門定利、母は杉原家利の娘朝日。生まれた年は定かではなく、天文11年説(杉原家定の姉の場合)天文17年(1548)説、天文18年説(家定の妹の場合)などがある。

永禄4年(1561)、朝日の妹七曲が妻として嫁いでいた縁から、織田家の足軽頭浅野長勝の養女となったおねは、当時木下籐吉郎(29歳)と名乗っていた秀吉に嫁いだ。「恋愛結婚」であったといとう。天正元年(1573)、秀吉は、丹羽と柴田の一字を取り羽柴姓となった。そして、織田信長から江北三郡を得た秀吉は、天正2年(1574)に長浜城を築城。城持ち大名となった秀吉とおねとの生活はここから始まった。

おねは、ここで城下町経営に力を発揮したと云われている。また、秀吉はおねをよき相談相手としたとも云われている。天正4年(1576)、安土城の築城が始まった。秀吉は家臣としてたびたび安土城を訪れていたが、実はおねも安土城を訪れていることが、信長から秀吉に送られた手紙でわかっている。その手紙には、おねが安土城に訪れたことがうれしいことが記され、持参した土産がりっぱであったこと、おねの容貌がすばらしいこと、おねに秀吉が文句を言うのは、言語道断なこと、「はげねずみ」の秀吉にはもったいないことなどが書かれてあった。なお、「安土古城図」には秀吉邸が存在していたことになっているが、秀吉夫婦の安土城訪問からも、安土城に秀吉邸が存在しないことがわかる。

天正8年(1580)、秀吉は播磨攻めを行いながら姫路城の築城を始める。長浜城は堀秀政の持ち城となったため、必然的におねも秀吉について姫路に移住したと考えられるが、天正10年(1582)、信長は本能寺の変で明智光秀に討たれた時は、長浜城にいたことになっており、阿閉氏が長浜を攻めたときには大吉寺に逃げたと云われている。

さて、秀吉は、主君の仇討ちのため中国から大返しを行い光秀を討った。そして、政権はいよいよ秀吉のものとなっていく。秀吉は京山崎山城を本拠地としながら、大坂城の築城を開始し、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を討ち、小牧長久手の戦いで織田信雄・徳川家康を封じ込めた。天正13年(1585)、秀吉は内大臣正二位に任じられ平氏となった。さらに七月には関白に任命され従一位に叙せられ藤原姓を賜る。おねは、従三位となり「政所さま」と呼ばれるようになった。夫婦はついに「天下人」となったのである。

天正13年2月、おねは摂津阿弥陀寺に薬師堂建立費用を寄進する。この頃から、おねの役割は関白家の外交を担うようになり、政治的な場での役割は大きくなってきた。天正14年12月、秀吉は太政大臣となり、豊臣姓を名乗るようになる。天正15年、九州平定に出陣。おねは大坂城で留守を守った。天正16年(1585)6月、聚楽第が完成し、おねはたちが移り住んだ。後陽成天皇行幸に合わせ、おねは従一位・准三后、になり豊臣吉子を名乗る。天正19年、右腕の弟秀長を亡くした秀吉は、甥の秀次を関白とし、自らは太閤となり、豊臣家の跡を考えていた。そして朝鮮へ出兵。おねへの生前譲与として、大坂天王寺を含む平野郷を与えた。秀吉との間に子がなく、没後の為と考えられている。慶長3年3月、醍醐の花見が催され、秀頼、おねたちが花見を楽しんだが、それが秀吉の最後であった。病が重くなり秀吉はこの世を去った。

おねは秀吉の死後も北政所と呼ばれたが、大坂城西の丸を退去し、孝蔵主らとともに京都へ移り、秀頼と千姫の婚儀を見届けたことを契機に尼となり高台院湖月尼と称した。そして、秀吉の冥福を祈るために京都東山に高台寺を建立し、豊臣家滅亡後も江戸幕府の庇護の元、その生を全うし寛永12年(1624)9月6日没した。

ねねは、戦国という長い激動の歳月を生き抜きぬいた武将たちの「かかさま」であった。

(参考文献:田端泰子『北政所おね』)
(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 木戸 雅寿)

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