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  2. 特集 近江の姫たち

鍋

お鍋の松
お鍋の松 関係図
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信長の側室

鍋は、織田信長の側室の一人として有名な女性である。土豪の高畑源十郎の娘と云われているが確証はない。また、嫁ぎ先においても、八尾城(東近江市)の城主である小倉左近将監実澄とする説や高野城(東近江市)の城主である小倉右京亮実治とする説等がある。また、実治を実房とする説やおのおのの持ち城が八尾城や高野城、小倉城(東近江市)、佐久良城(日野町)と入れ替わって説明されている場合もあり諸説ある。これらは愛知郡小椋庄を領地として高野城と小倉城を居城とする東家と、神崎郡御園庄を領地として山上城を本城を構え、和南城、山田城、相谷城,九居瀬城、八尾山城等を一族の支城とする西家とが混同されているからと考えられる。いずれにしても、鍋には甚五郎と松千代(松寿)の二人の子供があったことは事実のようである。

さて、小倉氏は、永禄2年(1559)に京都から帰途につく織田信長を、八風街道越えで伊賀に抜ける手引きをしたことを理由に六角承禎の怒りを買い、殺されてしまう(和南山の合戦)。鍋は2人の子供を抱え小田(近江八幡)に住む姉の家に身を寄せたといわれている。その後、鍋は信長の側室となり、その後を岐阜で暮らすこととなった。岐阜では七男信高、八男信吉と、後に水野忠胤・佐治一成の室となる於振を生んでいる。また、先夫の子二人は信長により庇護されたが、松千代は本能寺の変で森蘭丸らと共に討ち死にした。

天正10年(1582)に本能寺の変で信長が死去した後の鍋は、信長の菩提を弔うことに尽力したといわれ、それを見た羽柴秀吉は近江愛知郡内に182石を与えた。天正11年(1583)にさらに400石が加増された。また、長男の甚五郎が加賀松任城主に任じられたという話もあるが定かではない。慶長5年(1600)、関ヶ原の戦で信長との子の信吉が西軍についたため、鍋の領地も召し上げられた。しかし、その後信吉はかろうじて高家としての扱いを受け京都で晩年を過ごし、慶長17年(1612)に死去した。墓所は信長と同じ京都の大徳寺塔頭総見院にある。

鍋の足跡を訪ねて

このように、鍋と鍋の夫小倉氏をめぐる遺跡が近江には残されている。

八尾城の詳細は明らかではないが、佐久良城、小倉城は現地でも遺構を見ることができる。また、佐久良城の近くの曹洞宗神護山仲明寺は小倉実澄の菩提寺として有名である。特に高野城については、平成14年度に高野館遺跡で永源寺町教育委員会が団体営圃場整備に伴う事前発掘調査を実施し、16世紀末から17世紀にかけての土器類と共に石垣が発見されたことで知られている。また、近くには秀吉が没してから、隠栖した場所として「お鍋屋敷」と称される伝承地もいまに伝えているが、高野に居住した確証は得られておらず詳細は明らかではない。

また、一時を過ごした小田には「小田は良いとこ お鍋の方が 殿をまねいたこともある」と地元の子守唄(『近江八幡ふるさと昔はなし』)とともに、「お鍋さんの屋敷跡」という伝承が残されており、かつては、お鍋の弔いのために一本松が植えられ、「おなべ松」と呼ばれていた松があったという。現在、屋敷の伝承地の松は枯れ、かつて松が生えていた塚とその後に植えられた3本の松が残されている。信長を暗殺した敵を憎むお鍋の妄念は消えようとしても消えず、いつしか「白蛇」のたたりとなって、この堀を掘ったり、松を切ろうとすると発熱させたりしびれさせたりするという言い伝えも、今に伝えられている。

(滋賀県教育委員会文化財保護課 木戸雅寿)