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大蔵卿局

大蔵卿局と大野三兄弟

大蔵卿局は浅井三姉妹の長女茶々(淀殿)の乳母である。その出自については定かではないが、浅井氏の家臣の娘であったともいわれている。あるいは茶々の乳母であるということからそうした噂が生まれたのかもしれない。また、大蔵卿局の夫大野氏についても一般に丹後の地侍とされているが、一方では尾張出身説や近江出身説などあって判然としない。いずれにせよ、浅井氏との縁、もしくは浅井氏に輿入れした市の実家である織田氏との縁で大蔵卿局が茶々の乳母となってのであろう。

ともかく前半生の明らかではない大蔵卿局であるが、その三人の息子はいずれも豊臣秀頼に側近として仕えている。特に長男治長は、大坂方の中心人物の一人として豊臣家滅亡にいたる大坂の陣において、母大蔵卿局とともに淀殿・秀頼の側にあって共に最期を遂げた。大蔵卿局母子は、ともすれば淀殿とともに豊臣家を滅亡へと導いた張本人のようにいわれるが、それは後世の徳川中心史観からくる歪められたイメージにすぎない。実際にその経過をたどってみれば、浮かび上がってくるのは「狸親父」とも称される徳川家康の老獪さである。

豊臣・徳川二重公儀体制

慶長5年(1600)の関ヶ原合戦によって徳川家康の覇権が確立し、以後天下人への階段を歩んでいく。慶長8年(1603)には家康は征夷大将軍に任官し、江戸に幕府を開いた。その2年後の慶長10年(1605)には将軍位を嫡子秀忠に譲っている。このことは、征夷大将軍を徳川家が世襲することの宣言であり、徳川政権が制度的にも確立したことを示すものであると理解されている。

しかし、実際には大坂城に豊臣秀吉の遺児秀頼がおり、家康は豊臣政権の五大老筆頭の地位から抜け出してはいない。家康は、軍事的実力としては第一人者であるが、政治的に見た場合、幼少の豊臣秀頼を補佐し、それに代わって政務を執る立場にあったのである。

すなわち、秀頼成人の暁には、父秀吉と同じく関白職に就任し、徳川家は豊臣家に臣従することが将来像として想定されるのである。征夷大将軍は武家の棟梁として全国の諸大名に対する軍事指揮権を有してはいるものの、関白職は天皇の代理として日本全国を政治的に支配する立場にあり、かかる政治体制はまさに秀頼の父豊臣秀吉によって構築されたものなのである。そして家康と秀頼の年齢差を考えれば、家康の死によってかかる政治体制が現実味を帯びたものとなることは明らかであろう。

関ヶ原の合戦において家康に従って戦った東軍の諸将はそのほとんどが豊臣系の諸大名である。彼等は、家康の軍事的実力を認め、これに従ったが、当然自らが主と仰ぐのは豊臣秀頼であり、豊臣家そのものを見限ったわけではない。秀頼が成人し、家康が死んだとなれば、たとえ秀忠が将軍位にあったとしても軍事的実力が未知数の将軍にそのまま唯々諾々と従うとは考えられず、豊臣家への忠節を第一とすることは当然の帰結である。

いわば関ヶ原合戦以降の政治体制は、現実としての徳川将軍権力体制と、将来的な豊臣関白体制とのいわば二重公儀体制といってよく、このまま何事もなく時が移れば豊臣政権が再び盤石なものとなっていくことになるのである。

こういったことを端的に示す事例が秀頼による寺社の造営である。秀吉の死後、秀頼はその追善供養と称して畿内を中心に多くの寺社造営に関わっている。従来、このことは徳川家康による豊臣家の財産を消費させる策略と考えられてきたが、近年では豊臣家が国家鎮護を司ることの証として、すなわち公儀としての役割と捉えられるようになっている。ちなみに近江においても園城寺(大津市)をはじめ、都久夫須麻神社(長浜市)、白髭神社(高島市)、摠見寺(近江八幡市)など、多くの寺社の復興・改築に関わっている。

方広寺鐘銘事件

徳川家康としては、こうした事態をそのまま放置しておくことはできない。徳川の天下を名実ともに確立するためには、豊臣家を臣従させるか、さもなくば葬り去る他ないのである。

しかしいきなり豊臣家に対し、軍事攻撃をしかけたり、臣従させるべく圧力をかけるわけにはいかない。大義名分が必要となる。この様なときに起こったのが方広寺鐘銘事件である。

方広寺は、豊臣秀吉が奈良の大仏にならって京都東山の地に大仏を建立しようとして造営した寺院である。いったんは完成したものの、慶長元年(1596)の大地震によって大仏殿は大仏もろとも大破してしまった。秀吉の没後は秀頼がその遺志を継いで復興を命じ、ようやく慶長17年(1612)に大仏が完成し、慶長19年(1614)には大仏殿も再建され、落慶法要を待つばかりであった。

この時、方広寺の梵鐘に刻まれた銘文の中にある「国家安康」「君臣豊楽」の八文字が、徳川家康を呪う不吉の文字であるということで問題となった。

この問題の弁明の使者として大坂から派遣されたのが片桐且元である。且元は賤ヶ岳七本槍の一人として知られる豊臣秀吉股肱の家臣の一人であり、秀頼の傅役を務めていた。慶長19年8月19日、且元は駿府へ到着したが、家康は且元に会おうとせず、側近の本多正純と金地院崇伝に対応させた。且元は約一か月駿府に滞在して徳川方と交渉を重ねたが明快な解決策を見つけることができず、9月12日、駿府を後にする。且元は、交渉の中で徳川方の強硬な姿勢を感じ取り、豊臣と徳川の間の和平を保つことの困難さを認識していた。

その一方で、淀殿は且元とは別に大蔵卿局と正栄尼、二位局の三人の女性を使者として駿府に遣わした。且元だけでは心許ないと思ったようであるが、結果的にはこの二重の使者が徳川方に付けいらせる隙をつくる結果となってしまった。且元に対しては終始厳しい態度で接していた徳川方であったが、大蔵卿局等に対しては家康自身が対面し、丁重にこれをもてなしたのである。鐘銘問題についても、局等が弁明すると「不苦(くるしからず)」(『慶長年録』)と答え、とがめ立てするようなことはなかった。家康は淀殿と秀頼の健康を気遣い、秀頼に嫁いだ孫の千姫に懐妊の様子はないかと上機嫌で尋ねていた。

大坂への帰路、且元は局等と近江土山で今後の対応について話し合っている。局等が且元に交渉の結果を尋ねると、且元は、自身の考えとして、秀頼が大坂城を明け渡すか、淀殿を人質に江戸へ差し出すか、秀頼が江戸に参勤するか、この三条件のいずれかを受け入れなければ徳川方は納得しないであろうと答えている。この答えを聞いた大蔵卿局は、自身が家康から受けた丁寧な対応とのあまりの落差に驚き、且元に対する不審を募らせたようである。

先に戻った大蔵卿局等は、この且元の考えを淀殿と秀頼に伝えたが、当然二人はこうした条件をのめるはずもなく、かえってこのような条件を提示した且元への不信感を募らせ、ついには且元を大坂城で誅殺せんとするにいたったのである。

且元に対する峻厳で高圧的な態度と、大蔵卿局等に対する穏和で友好的な態度を使い分けることによって、徳川方は豊臣方の離間を謀ったのである。豊臣方はその策略にまんまと乗せられ、最後の忠臣ともいうべき片桐且元を失うことになった。

大坂の陣

結局ここでの選択が豊臣家の運命を決したといっても過言ではない。もし、この段階で淀殿と秀頼が大坂城を出ていれば、あるいは豊臣家は徳川幕府のもと一大名家として存続したかもしれない(もちろん、その後の外様大名改易の大波に飲み込まれた可能性はおおきいが)。

自分が誅殺されるとの情報を得た片桐且元は10月1日、大坂城を退き、摂津茨木城へと移っていった。豊臣方ではこれを討たんと討伐の軍を起こしたが、これを見越していたかのように、徳川家康もまた豊臣秀頼討伐の軍を挙げた。ここに大坂冬の陣の幕が切って落とされたのである。慶長19年(1614)11月、木津川口の合戦を皮切りに始まった戦いは、太閤秀吉渾身の名城大坂城の堅陣と、真田幸村(信繁)等大坂方の奮戦もあって徳川方は攻めきれず、12月和議に持ち込まれた。

しかしこの平和は長く続かなかった。慶長20年(1615)4月、再び戦いの火ぶたは切って落とされた。冬の陣の和議の条件として大坂城の内堀まで埋め立てられてしまったため、大坂城の守りは冬の陣の時とは比べようもなく、やむなく出撃した諸将も次々と討ち死にを遂げ、ついには大坂城落城となった。

淀殿・秀頼母子は、大坂城山里郭の土蔵の中で自害した。大蔵卿局・大野治長母子もこれに殉じている。乳母として幼少より仕えていた淀殿に、最期まで付き従ったのである。

(滋賀県教育委員会文化財保護課 松下 浩)

  • 土山宿の景観(本陣跡)土山宿の景観(本陣跡)
  • 土山宿控本陣跡(大黒屋本陣跡)土山宿控本陣跡(大黒屋本陣跡)

方広寺鐘銘事件の弁明に駿府に赴いた片桐且元と大蔵卿局が大坂への帰途、その善後策について土山宿で協議した。