1. HOME
  2. 特集 近江の姫たち
  3. おきく

大坂城脱出「おきく」

おきく物語
おきく物語

淀殿の侍女「おきく」

「おきく」は慶長元年(1596)生まれ。彼女の祖父は山口茂介といい浅井長政に千二百石で仕えた。父茂左衛門は長政と市の間に生まれた淀殿が幼少の頃より仕え、「おきく」もまた淀殿に仕えていたのである。

落城の日

元和元年(1615)5月7日、当時20歳の「おきく」は大坂城長局にて蕎麦粉を取り出し、下女に蕎麦焼にするよう言いつけた。

大坂城千畳敷の縁側は眺望もよく、周囲を見渡すことができた。城内のあちこちが焼けているという噂とおり、幾つもの火の手が上がっているのが見えた。この時「おきく」は脱出することを決意したようだ。

局に戻り帷を三枚重ね着し、腰巻きも三枚重ね、豊臣秀頼より拝領した鏡などを懐中に忍ばせて台所へと向かった。そこには武田栄翁が怪我人の看護をするよう、脱走せぬよう大きな声で叫んでいたが聞く人もなく女中達は台所から出て行った。「おきく」もその一人であった。

つい先ほどまで、呑気に蕎麦焼を食べようとしていたように落城寸前という切迫した雰囲気はなかった。城内を通り抜ける際の記述がないことから、特に気に留めることはなかったようだ。さらには城外へと出ても武者もおらず、目の届く限り負傷者などもみえなかったという。嵐の前の静けさなのか、意外なほどに穏やかだったようである。

すると物陰から単衣物一枚を着た男が錆刀を抜いて金を要求した。「おきく」は懐中の竹流し金二本を与え、更に金を与えるから祖父・父と縁の深かった藤堂高虎の陣まで同道するよう求めた。

「おきく」が高虎を頼ろうとしたのには理由がある。実は、かつて高虎は浅井家の足軽であり、「おきく」の祖父山口茂介がその小頭をしていた。当時の高虎は貧しく、茂介の妻がこれを哀れんでたびたび茶漬けなどを振る舞ったことから、大恩を感じていたのだという。その後、浅井家が滅亡したことから浪人となった「おきく」の父山口茂左衛門は、茶漬けの恩返しとして高虎のもとに三百石で召し抱えられたという経緯があったのだ。

ともあれ、怪しげな道案内兼用心棒とともに松原口にある高虎の陣営に向かった。
その道すがら、和睦の使者として城中にあった常高院(浅井三姉妹の次女、京極高次の妻)一行に出くわした。常高院は武士に負ぶさり、後ろから足を押さえられ、女中や侍が逃げるように付き従うという有様であった。何を思ったのか「おきく」は高虎の陣営に向かうことをやめ、怪しげな道案内兼用心棒と袂を分かち、どこへ向かうかわからない常高院一行と同行することとなった。

常高院とともに森口(守口)の民家で逗留している内に、大坂城内にあった女中はお咎めなしとのお達しが出たので、浅井家と関わりの深い松の丸殿(浅井家と関わりの深い松の丸殿(京極龍子、母は浅井家出身のマリア)を頼って京都へと向かった。

明暗

「おきく」の父茂左衛門は、大坂夏の陣に際して高虎のもとを離れ豊臣に奉公を願い具足を賜った。そこで「おきく」は赤と白の絹布を縫い合わせて指物をつくって渡したところ、娘を大いにもてなしたのだという。茂左衛門としては今生の別れのつもりだったのだろう。その後間もなく討ち死にしたのであろうが、最期の様子はようとしてわからない。
また、「おきく」が台所に蕎麦を焼かせた女中の行方も知れない。

「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣・国指定重要美術品)には徳川方の雑兵が城下の民衆に襲いかかり偽首を取る様子や略奪を働くところ、さらには川を渡って逃げる民衆に銃口を向けるところ、そして女性を手篭めにするところなど阿鼻叫喚の様が描かれている。また、記録によれば一万数千の首の内、偽首が数多く含まれ、生き残ったものの奴隷狩りに遭った者の数は大人から年端の行かぬ子供まで数千人に達したという。

昨今、戦国時代には人命を軽視していたわけではないとする論に出くわすことがあるが、やはり戦国の世にあって人の命は軽かったと言わざるを得ない。何が明暗を分けたかはわからないのだが、大坂城内から無事に逃げおおせた「おきく」の奇跡的な強運には驚く他はないのである。

(滋賀県教育委員会文化財保護課 畑中英二)