1. HOME
  2. 特集 近江の姫たち
  3. おあむ

戦国の語り部 おあむ

佐和山城跡
佐和山城跡

三成家臣の娘「おあむ」

「おあむ」とは、石田三成に仕えた山田去暦の娘。「おあむ」とはお庵=老尼の敬称と考えられることから、本名は不詳。関ヶ原合戦にまつわる彼女の体験談が後に筆録され、「おあむ物語」として現在に遺されている(吉田豊『雑兵物語(他)』教育社、1980年)。
 物語は大きく関ヶ原合戦の大垣籠城と彦根で過ごした少女時代の追想に分かれる。当時の女性が戦時に何をしていたかを具体的に知ることが出来る資料として極めて貴重である。

大垣籠城

慶長5年(1600)、徳川家康を核とする東軍と一戦交えるべく、石田三成は大垣城に入り西軍の根拠地となる。その後、三成率いる西軍本隊は関ヶ原に移動し、大垣城には三成の妹を妻とした福原長堯が守将となった。
当時20歳前後であった「おあむ」は、三成に付き従った父とともに家族(ここでは母と弟)および家来達で大垣城に籠もった。戦闘に家族ぐるみで参加していることが注目される。父は武器を手に戦ったものと思われるが、ともに戦場に赴いた妻女は何をしていたのだろうか。
「おあむ」をはじめとした家中の妻女は、炊事などに活躍したであろうことは想像に難くないが、その想像を上回る役割を果たしていたのだ。
彼女たちは、天守に籠もり鉄砲玉を鋳造したり、味方が取った首を天守に集めて名のある武将のものとみせるためにお歯黒をつけるなどした。さらには「その首どもの血くさき中」という異常な空間で彼女たちは起居していたのだという。なお、大坂の役に参戦した黒田長政が大坂落城の日であり最大の激戦となった5月7日の情景を絵師に描かせたとされる屏風絵「大坂夏の陣図屏風」(大阪城天守閣・国指定重要文化財)には、大坂城の天守の窓から外を眺めている女性達の姿が描かれている。大坂城天守に籠もった女性達が何をしていたかを知る術はないが、「おあむ」達と同様に無為に時を過ごしていたわけではないのだろう。
「おあむ」の昔語りは、戦時において天守で何が行われていたかを具体的に知ることができるとともに、男性だけではなく女性達も戦っていたことを知ることができるのだ。

大垣城脱出

さて落城を間近にしたある日、「おあむ」の眼前で14歳の弟が流れ弾に当たって命を落とした。落城は今日か明日か、明日は我が身かと死を覚悟した。その日、敵方から命の保証をするので城外へ逃亡するようにうながす矢文が届き、父は母と「おあむ」を天守から連れ出した。古くからの家来4人(他の家来は置き去り)のみを伴って、城の塀から梯子や吊り縄で下り、堀をたらいに乗って渡って城を後にした。城を離れてほどなく、母が突如として産気づき娘を生む。急なことなので家来は田の水で産湯をつかい、赤子を着物の端にくるんだ。そして、父は母を背負って関ヶ原を経由して近江へと向かったのだった。
 この脱出劇、その後のことは明らかではないが、おそらく一家は無事落ち延びることができたようである。なお、諸将の裏切り、城兵の離散によって、守将福原長堯は降伏し、開城したのだった。

その後の「おあむ」

関ヶ原合戦後、父は主家が滅亡したため浪人になり、「おあむ」は雨森儀右衛門に嫁いだが死別。ともに親戚を頼って土佐国に赴く。そこで昔語りしたのが「おあむ物語」である。 太平の世にあって、斯くの如き壮絶な戦争体験談は、多くの人の心をつかんだのであろう。

(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 畑中英二)

  • おあむ物語おあむ物語