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妙寿院

関係図
  • 妙寿院の関係図

夫田中吉政

妙寿院は田中吉政の妻である。吉政は小土豪から出世して、筑後柳河(福岡県柳川市)32万5000石の大名となった立志伝中の人物である。はじめ宮部継潤に従って頭角をあらわし、ついで豊臣秀次に仕え、「関白殿一老」(筆頭年寄)として活躍した。文禄4年(1595)の秀次事件でも連座を免れ、慶長元年(1596)には三河岡崎で10万余石の大名となっている。そして、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では東軍の先鋒として活躍し、佐和山城を落とす一方、敗将石田三成を探索して捕縛した。戦後、32万余石の大封を得たのも、このときの軍功による。

『朝野雑載』の逸話

さて、この吉政と妻とのことについては『朝野雑載』に次のような逸話が見えている。

田中兵部大輔吉政は近江国田中村の小農人なり。初名九兵衛。十八才の時、みづから思へらく「農夫にて身を終わらんこと口惜。今戦国なり。吾れ仕官して功を立て、富貴を取り名をたてん」とて、其の妻に暇をやる。妻の云く、「我れ何の罪有りてや出さるゝや」。九兵衛が曰ふ。「汝に罪なし。我れ大いなる志有り。明日出で去るべし。飯を多くかしぐべし」とて、有る所の米数升悉く飯にたかせ、平生したしき友を呼びて饗し、我が志を語り、終に去りて、宮部善祥坊に仕へん事を求めて、草履取となる。

吉政が仕えた宮部善祥坊継潤は浅井郡宮部村(長浜市宮部町)の土豪で、はじめ浅井氏の家臣として活躍したらしいが、木下藤吉郎(秀吉)の調略に応じて織田信長に従い、元亀3年(1572)8月には小谷城攻めに加わっていた(信長公記)。すなわち、小谷城攻撃の拠点となる虎御前山城と横山城をつなぐため、織田信長は両城間にある八相山と宮部郷に要害(砦)を築き、虎御前山へ向けて三間半幅の道をつくって、宮部砦に継潤を入れ置いている。「田中兵部大夫ハ拙者譜代筋ノ者ニ御座候」(宮部長凞身上書)。継潤の子長凞が寛永10年(1633)に語ったところによれば、吉政はもともと、この宮部家譜代の家臣だったというのである。

浅井郡三川村

上述の如く、吉政は近江国田中村(高島市安曇川町田中)出身とされてきたが、近年になって宮部村の北隣にある浅井郡三川村(長浜市三川町)の出身であることがわかってきた。米原市飯の徳善寺に伝来した「新庄福永順光寺図」に「此田中筑後守者近江国浅井郡三河村出生大名也」と見え、福岡県久留米市大善寺町の玉垂宮にかつてあった吉政寄進の梵鐘には「大施主田中筑後守橘朝臣四位吉政、生国江州浅井郡宮部縣子也」の銘文があった。ここにいう「宮部縣」とは三川村も含む宮部一帯(湯次庄)を指すとすれば、吉政は三川村の土豪として、隣村宮部村の継潤に仕えていたことになる。吉政は天文17年(1548)生まれとされるから、元亀3年(1572)には24才になっていた。おそらく宮部砦と八相山砦の間に位置する三川村にあって、小谷城攻撃に加わっていたのだろう。

国友与左衛門の娘と姉

吉政の妻妙寿院の実名はつたわらないが、宮部家の家臣国友与左衛門の娘であるという。国友氏は坂田郡国友村(長浜市国友町)を本貫とする土豪で、国友集落の南西側に「殿やしき」という地名があり、ここが国友氏の館跡と伝えられる。史料上、国友氏の活動は田中氏や宮部氏よりもふるくから知られ、長享元年(1487)4月3日には、京極高清と対立していた多賀宗直の弟又三郎が国友兵庫助屋敷に陣取っている(江北記)。また、『天文日記』天文13年(1544)8月24日条には、国友伯耆守が富岡一右衛門という家臣をもつ土豪として登場する。与左衛門はこの伯耆守の一族とみられる。そして実は、吉政の母もまた国友与左衛門の姉であったという。つまり、妙寿院にとって夫の母、すなわち姑は父の姉であり、吉政とはいとこ同士だったのである。田中家と国友家は宮部家の家臣として親密な関係にあり、二代にわたって婚姻関係を結んでいたのであった。『朝野雑載』が言うように、吉政は妻を捨て置いて、継潤に仕官した訳ではなかったのである。

故郷への思い

吉政の妻も母もその事績はほとんどつたわらないが、秀吉の出世とともに、継潤が出世し、吉政もまた出世すると、妻や母も吉政に従って故郷を離れている。このことは文禄2年(1593)1月11日、吉政が秀次に従って三河岡崎城主であったとき、母が当地で死去していることからも明らかである。ただし、このとき吉政は母の葬儀に際して、浅井郡内保村(長浜市内保町)誓願寺住職明乗をわざわざ岡崎に呼び寄せている(誓願寺文書)。また、母の追善のために誓願寺に梵鐘を寄進したと伝わる。天正15年(1587)の九州攻めに従軍した際、豊前小倉(北九州市小倉区)の貫庄八幡宮から分捕った正平21年(1366)銘の梵鐘がそれであり、今なお誓願寺に現存する。

さらに、慶長9年(1604)5月12日、吉政は翌慶長10年の竹生島蓮華会の頭役を夫婦でつとめることを申し出ている。蓮華会は浅井郡の富貴者に頭役を差定しておこなわれる弁財天の祭礼で、その起源は円融天皇が慈恵大師良源に命じた雨乞い修法にあるという。良源は比叡山延暦寺の中興の祖として知られる第18代天台座主で、実はその出身地は吉政と同じ浅井郡三川村(玉泉寺)であった。筑後柳河で大封を得て志を果たした吉政は、妻とともに故郷に錦を飾る思いがあったのだろう。

息子4人の不運

『寛政重修諸家譜』によると、吉政と妻との間には4人の息子があった。しかし、いずれもが不運であった。長男吉次は関ヶ原合戦において福島正則とともに岐阜城を落とすなど活躍したが、しばらくして父吉政と不和になり勘当、廃嫡された。二男吉信は家臣になったとも、病死したとも(田中系図)、慶長11年(1606)に横死したとも伝わる(家伝系図抜書)。三男吉興は関ヶ原合戦や大坂陣に出陣したというが、病弱で言葉も不明瞭であったらしい(田中興廃記)。四男忠政は幼少より人質として江戸にあり、将軍秀忠の上洛に供奉するなどの経歴を有した。慶長14年(1609)2月18日に吉政が亡くなったとき、吉興は吉政の不興をかっていたので、忠政が兄吉興らをさしおいて家督をついでいる。

田中家の断絶

慶長14年6月4日、徳川秀忠は忠政の家督相続を認めている。そして、吉政の妻妙寿院は忠政の襲封を見届けて、慶長19年(1614)2月15日に亡くなったらしい。忠政はこのとき「三川村西之道場」(長浜市三川町還来寺)に打敷を寄進している。

ところが、その直後、忠政は慶長20年(1615)の大坂夏の陣に遅参した。また家中で争論がおこり混乱した。その原因については忠政と吉興とがことのほか仲が悪く(筑後之国柳川にて世間とりさた申す事)、吉興が忠政の大坂方内通を幕府に訴えるといった説もあるほどである。そうしたなか、忠政が元和6年(1620)8月7日に36才の若さで病死。跡目の嫡子がなく、これによって吉政が一代で築き上げた32万5000石の田中家は断絶することとなった。吉政も妙寿院もこのことを知らずに、この世を去ったことがせめてもの幸いであろうか。

(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 北村圭弘)

  • 田中吉政出生地(長浜市三川町、中央の寺院は玉泉寺、背景は伊吹山)田中吉政出生地(長浜市三川町、
    中央の寺院は玉泉寺、背景は伊吹山)
  • 虎御前山城跡(小谷城跡から)虎御前山城跡(小谷城跡から)
  • 元三大師良源の出生伝承地(玉泉寺)元三大師良源の出生伝承地(玉泉寺)