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朽木マグダレナ

関係図
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朽木マグダレナは北近江の名族京極家の当主高吉と戦国大名浅井久政の娘マリアとの間に生まれた。マグダレナは朽木家18代当主宣綱の妻となり、二人の兄は高次が讃岐丸亀藩主、高知が丹後宮津藩主、また姉龍子は豊臣秀吉の側室として寵愛を受けるなど、兄姉は皆繁栄を誇った。

両親ともにキリシタンで、とりわけマリアは敬虔なキリシタンであったこともあり、彼女も受洗してマグダレナと呼ばれた。なお、当時は夫婦別姓で、女性は結婚しても生家の苗字を名乗るのが一般的であり、本来は京極マグダレナとすべきであるが、一般に朽木マグダレナとして知られているのでここでもそのようにしておく。

名族朽木家

マグダレナが嫁いだ朽木家は室町幕府奉公衆として将軍を支える家柄であり、戦国期に京都を逐われて流浪する将軍(12代足利義晴・13代足利義輝)を朽木谷にある自身の館に迎えている。宣綱の父元綱も朽木家当主の時に将軍義輝を迎えている。

永禄11年(1568)の織田信長近江侵攻は近江国内の諸勢力にとって大きな転機となったが、朽木家にとってもそれは例外ではなかった。元亀元年(1570)、織田信長が越前朝倉氏を攻撃中に浅井氏の裏切りにあい、湖西路を京都へと撤退する途中、朽木谷を通過するが、元綱はこれを容認するだけでなく、手厚く迎えている。高島七頭ら湖西の在地領主たちが浅井・朝倉に従う中、元綱は信長に対し、敵対的な態度を見せておらず、元亀2年(1571)には信長に使者を送って臣従の意を伝えている。

本能寺の変の後は秀吉に従い、秀吉直臣として合戦や政務に活躍している。しかし秀吉の死後、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは当初大谷吉継に従い、西軍の武将として行動していたが、戦いのさなか、小早川秀秋らとともに東軍に寝返った。大谷吉継は小早川秀秋の陣取った松尾山近くに布陣し、小早川の寝返りを警戒して朽木元綱・脇坂安治らを松尾山の麓に配置した。しかし、小早川の寝返りと同時に、朽木・脇坂らが寝返ったためこれを支えきれず、西軍は総崩れとなって東軍の勝利を決定づけたのである。この後朽木家は徳川家に接近していき、一族は江戸時代を通して旗本・大名として存続していく。

朽木宣綱の妻マグダレナ

マグダレナは元綱の嫡子宣綱の正室である。宣綱は天正10年(1582)生まれであるが、二人の結婚の時期については明らかではない。ただ、慶長3年(1598)には嫡子竹松丸(後の智綱)が誕生していることからこの年までには結婚していたものと考えられる。また元綱は同年の醍醐の花見において京極龍子(松の丸)の輿に付き添う役を務めているが、これも嫡子宣綱の妻の姉という姻戚関係によるものと思われる。

マグダレナは、跡継ぎの智綱と丹後峰山藩京極氏の藩祖となる高通を生んでいるが、慶長8年(1603)次男高通を生んでから体調を崩し、3年後の慶長11年(1606)、京都八瀬の館でその生涯を閉じた。

マグダレナの死と葬儀

マグダレナの人生は短く、彼女の人となりを伝える事柄はあまりにも少ない。しかし、マグダレナの葬儀をめぐる騒動の様子が、イエズス会の日本年報に記されている。

1606・07年の日本年報(『十六・七世紀イエズス会日本報告集 第Ⅰ期第5巻』同朋社出版 1988)によると、当初夫の朽木宣綱は、「予の妻は日本で遍く知られているので、その埋葬や葬儀はできる限り盛大かつ華麗に行うことが彼女にとって必要である。もしキリシタンの習慣に従って伴天連たちによって執り行われたならば、そうはできぬであろう。」といって仏式の葬儀を主張した。しかし母マリアは、キリシタンである娘(マグダレナ)が異教徒(つまり仏教徒)として葬られるのは許せないとし、「もしキリシタンの流儀で伴天連様方に埋葬をしていただくならば、仏教徒たちがあっと驚き、あなたや親戚の方々が面目を施すほど壮麗で豪華な埋葬をされるであろう」といって宣綱を説得した。結局、母マリアの主張がとおり、京都の完成したばかりの新教会で葬儀が行われた。マリアの言葉どおりの盛大な葬儀であったようで、「葬儀には多数の身分の高い人たち、故人と夫の親戚たちが駆けつけた。双方の親族の友人や知人たちが多数参集し、(中略)すこぶる大勢の人が集まったので、教会は広くはあったが、教会だけではなく、中庭、回廊中庭、周囲のすべてが(人で)満ちた。」と大勢の人であふれかえっていた様子が記されている。

葬儀のあとさき〜茶々との関わり〜

しかしこの話には続きがある。この葬儀の評判が都中に流布すると、そのことに危機感を募らせた仏僧たちが徳川家康にバテレンの非道を訴えたのである。この時は家康もその訴えを退けたが、ことはこれでは終わらなかった。今度は淀殿(茶々)が家康に対して不満を訴えたのである。イエズス会日本年報は次のように記している。
 「この亡くなった婦人(京極マグダレナ)の従姉妹にあたる若君(豊臣)秀頼の母(淀殿)のそれはそのように失敗とはならなかった。彼女は、身内の婦人がキリシタンの流儀で埋葬されたこと、自分の侍女の何人かともう一人の身内の女性が新たに受洗したことに怒り、また仏僧たちに唆され篤く信じている神仏に奉仕することになると考えて、公方に不満を訴えさせ、福音の説教を厳禁する新たな命令を発するように求めた。この求めに公方は反論もせず、あまり問題にもしなかった。しかし、つねに上機嫌でいてもらいたいと思っているこの女性をあしらうために、彼女が居住している大坂の市の奉行に、市の主要な場所に次の命令を貼り出すように命じた。」ここに記された「公方」とは徳川家康のことである。淀殿が家康に訴えた結果、家康は大坂の町奉行に対して禁教令を出すよう命じたのである。この時の禁教令自体はそれほど効果的なものではなく、本格的なキリシタン禁制は慶長17年(1612)の禁教令以降のこととなるが、家康が淀殿をなだめるためにこうした禁令を出したことは、両者の関係を考える上で興味深い事実である。

消えたマグダレナ

朽木家ではマグダレナの死後、その菩提を弔うために周林院(後の秀隣寺)を建立し、その境内に墓を建てた。こうした対応は、朽木家がマグダレナのキリシタン葬を行ったことで幕府に警戒感を抱かれることを恐れたことによると思われている。朽木家がこうした警戒感を敏感に察知していたことをうかがわせる書状が朽木家文書に残されている。

慶長11年(1606)と考えられる朽木元綱宛香楽斎書状には、「キリしたんの儀ニ付而ハ、将軍様上意之通内記・岡飛具申聞承届候、貴殿之御存分少も無相違御迷惑にて候事、」と書かれているが、将軍様(徳川秀忠)によってキリシタン禁令が示されたが、貴殿(元綱)の御存分(考え)についてはそれと少しも違わないとして、キリシタンに味方すると思われるのは迷惑であることを述べている。特にこの文書の猶々書(追伸部分)には「貴殿御存分之通者次第々々、将軍様御耳ヘ入可申候間、貴殿之御事者不可有別条候間、可御心安候、」と書かれ、元綱の存分、すなわちキリシタン禁令を支持する意思を将軍に伝えるので、元綱の立場も問題はない、安心して欲しいと述べているのである。この文書には京極高次も元綱と同様の立場にあったことが書かれているが、ここから読み取れるのは、朽木家と京極家が、キリシタンに親近感を持つものとして幕府に警戒されているのではないかという危機感と、そうではないことを主張してそうした立場から逃れようとしている姿勢である。マグダレナのキリシタン葬は、婚家の朽木家や実家の京極家を巻き込んで、両家の将来を左右する大きな問題に発展する危険性をはらんでいたのである。だからこそ、マグダレナを寺に埋葬し、仏式の墓所を建立したことに朽木家の危機回避への思惑が見て取れるのである。こうして、マグダレナの俗名も、人となりもキリシタンであったことを覆い隠すために消されてしまったのである。

ちなみにマグダレナの墓所が建てられたこの場所は、かつて中世朽木氏の館(岩神館)があった場所で、将軍足利義晴や足利義輝が朽木に滞在したときに居所とした所である。将軍の滞在に備えて庭園が造られ、現在旧秀隣寺庭園として国の名勝に指定されている。秀隣寺はその後寺地を他に移し、かわって興聖寺がこの地に移されため、庭園やマグダレナの墓所は、現在は興聖寺の境内地となっている。

(滋賀県教育委員会文化財保護課 松下 浩)

  • 旧秀隣寺庭園(興聖寺)旧秀隣寺庭園(興聖寺)
  • 西山城(戦国期朽木氏の居城)西山城(戦国期朽木氏の居城)
  • マグダレナ墓(興聖寺)マグダレナ墓(興聖寺)