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京極マリア

京極マリア位牌(智性院蔵)
ゆかりの品
京極マリアの位牌(舞鶴市泉源寺智性院)
関係図
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京極マリアは北近江を支配した戦国武将浅井久政(1526〜1573)の娘として生まれた。ただ、江戸時代に幕府が大名・旗本に提出させた家譜をまとめた『寛政重修諸家譜』には、「浅井下野守祐政が女」と記されており、これを信ずるならば久政の娘ではなく姉妹ということになる。しかし、浅井亮政(1491〜1542)は備前守を名乗っているが下野守は名乗っていないこと(下野守を名乗るのは久政)、嫡子高次を永禄6年(1563)に生んでいることから考えると、亮政の娘とするよりは久政の娘と考える方がよさそうである。

マリアは近江源氏佐々木氏の一族で、北近江に勢力を誇った京極氏の当主高吉(1504〜1581)の妻となる。浅井氏はもとは京極氏に従う北近江の有力国人領主の一人だったが、しだいに主家をおびやかし、ついには北近江を支配するにいたった。マリアと高吉の婚姻は、こうした北近江の覇権をめぐる京極氏と浅井氏の争いと深く関わっているのである。

戦国期の北近江は、応仁の乱に参加した京極持清の跡目をめぐって嫡孫の高清と三男の政経が争い、やがて高清が勝利した後今度は高清の跡をめぐって子の高延(高広)と高慶の兄弟が争うことになる。実はこの高慶が高吉ではないかといわれているのであるが、京極氏の系譜は中世と近世との間がうまくつながっておらず、『寛政重修諸家譜』では高清と高吉の間に二人の実在不明の人物が挟まっている。そのあたり系譜上問題はあるが、戦国期に京極氏の内部で家督をめぐる抗争が繰り広げられていたことは間違いない。

浅井亮政は、当初京極高延方に付き、同じ佐々木一族で南近江を勢力圏とする六角氏の援助を受けた高慶(高吉)と抗争を繰り広げていた。亮政は高延を支える有力国人として活躍することで、その存在感を増していき、やがて高延のもとを離れ独自の動きを見せるようになる。こうした亮政の動きに高延は次第に反感を抱き、ついには天文10年(1541)、亮政との戦いを開始する。しかし、このことは逆に浅井氏が京極氏のもとから自立することを加速することにつながった。亮政の跡を継いだ久政が、京極高吉(高慶)のもとに娘を嫁がせることとなったのは、おそらくこの頃のことと思われる。それまで敵対していた京極高慶と姻戚関係を結ぶことで、未だに北近江の土豪たちに影響力を持ち続けていた京極高延と対抗する名目を得ようと考えたのではないだろうか。

浅井氏は、こうした京極氏一族の内部抗争と関わる中でその存在感を増していき、やがては京極氏をしのいで北近江の支配権を確立することとなる。久政に続く長政の時代は、北近江の実質的な支配者として南近江の六角氏と対抗し、また尾張の織田氏からは信長の妹お市の方を妻に迎えて友好関係を取り結ぶなど、他の戦国武将たちと直接対峙している。一方でこのころの京極高吉・マリア夫妻の動向については資料がなく、詳しいことは分からない。おそらくは浅井氏の庇護のもとで、もとの居館であった上平寺の館にいたのではないだろうか。

その後長政は信長と対立するにいたるが、高吉はこれに同調しなかったようである。『寛政重修諸家譜』には「永正以来浅井が逆意により、所領を押領せられしことを遺恨におもひ、嫡子小法師を人質として岐阜に送り、異心なきむねをまうし、其身は上平寺城に蟄居し、剃髪して道安と号す。」と書かれている。所領を奪われたことを遺恨に思い、浅井氏には同調せず、信長に味方する証として嫡子小法師(後の京極高次)を人質として岐阜に送り、自身は上平寺城に蟄居して頭を丸めたというのである。もちろんこの資料は後世の編纂資料なので、その記述をストレートに信じられないのはいうまでもないが、京極氏が戦国の動乱を生き延び、江戸時代も大名として存続したことを考えると、浅井氏と運命をともにせず、袂を分かったことは確かであろう。

高吉はそのまま信長に従い続けたようで、妻とともに安土で洗礼を受けている。当時来日していたイエズス会の宣教師が本国に送った報告書である『イエズス会日本年報』には、「この人はキョクドノ(京極殿)と称し、夫人とともに説教を聴かんと決心し、デウスの教を喜ぶのあまり四十日間引続いて説教を聴いてよくこれを悟り、四十日の末に両人とも洗礼を受けた。」(一五八一年の日本年報)と書かれている。マリアは大変信仰心厚く、この後布教活動に力をそそいだ他、自らの子供たちにも洗礼を受けさせたといわれている。

京極高吉・マリア夫妻には男子が2人、女子が3人、合計5人の子があった。長男高次は秀吉に仕え、大津城主(滋賀県大津市)となる。関ヶ原合戦ではその前哨戦である大津籠城戦において西軍の軍勢をくい止め、その功によって若狭一国を拝領している。次男高知は秀吉、家康に仕え、丹後宮津藩祖となるが、マリアは晩年この高知の領地である丹後国泉源寺村(京都府舞鶴市)に暮らしている。長女は若狭の大名武田元明に嫁ぐが、元明が秀吉に滅ぼされた後は秀吉の側室となり松の丸と名乗る。次女は伊勢桑名の大名氏家行広に嫁いでいる。行広は関ヶ原の合戦では西軍に付いて改易され、大坂の陣では大坂方に参加し、豊臣氏と運命をともにするが、マリアの次女は生き延びたようである。三女は近江朽木の領主朽木宣綱に嫁いでいる。彼女もまた洗礼を受けてマグダレナと名乗るが、慶長11年(1606)に亡くなっている。

(滋賀県教育委員会文化財保護課 松下浩)