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蔵屋と寿松

蔵屋と寿松

竹生島

関係図
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蔵屋と寿松

浅井氏三代の初代亮政には、少なくとも二人の妻がいたという。蔵屋と寿松である。亮政の父は浅井直種、蔵屋の父は浅井直政。浅井氏の惣領はその実名が示す如く、直政であり、亮政は従姉妹ないし従兄の子である蔵屋と結婚することで、浅井惣領家を継いだとされる。蔵屋は浅井惣領家の嫡女であったから、まさに蔵屋あっての浅井亮政ということになる。浅井氏の菩提寺である『徳勝寺受戒帳』によれば、天文4年(1535)の受戒者に「玄盛 蔵屋殿」とあり、永禄11年(1568)8月2日に亡くなった「雪渓玄盛大姉」の墓碑が現存する。この墓碑はいま徳勝寺の浅井氏三代墓の傍らにたたずむが、本来は徳勝寺旧跡(長浜市朝日町円長坊)にあり、亮政の墓碑と堂々とならんで鎮座していた。実のところ、蔵屋が亮政の妻であったことを示す史料はなく、永禄10年の竹生島小島権現棟札に「浅井蔵屋」と見えるように、亮政が没した天文11年(1542)以降も落飾した形跡が見あたらない。浅井惣領家の嫡女であったからこそ、亮政没後も落飾しなかったといえるのかもしれないが、詳しくはよくわからない。蔵屋は浅井惣領家にとっては特別な女性であったことだけは確かである。

この蔵屋と亮政とのあいだに生まれたという一女が鶴千代であり、明確に「浅井鶴千代」と名乗っている(高野山持明院浅井家過去帳)。竹生島文書や黄梅院文書によれば、鶴千代は浅井氏本拠の丁野郷近在で「浅井新三郎殿御内様」として盛んに田地を買得し、天文2年には夫の武運長久等を祈願して竹生島に田地を寄進するなど、活発な活動を示している。そして、ここにみえる鶴千代の夫「浅井新三郎」は、蔵屋の祖母慶集の一族とみられる海津田屋氏出身の明政であり、亮政の名乗りである新三郎を継承していたことが知られる。つまり、亮政の後継は鶴千代の夫明政と目されていたことがうかがえる。このことは天文3年に亮政が京極氏を小谷城に迎えて饗応した際、浅井家中では明政が亮政に次ぐ地位をしめていたことによって裏づけられる。また、亮政の死去にあたっても、本願寺からの香奠は明政に贈られている。明政は蔵屋の嫡女鶴千代の夫であったからこそ、亮政の後継者と目されていたことになる。

しかしながら、実際に亮政の跡目を相続したのは、寿松が産んだ新九郎久政であった。『徳勝寺受戒帳』によれば、寿松は徳勝寺で都合四度にわたって受戒しており、天文4・6年(1535・1537)には「寿松 浅井備前殿御内」、同15・23年(1546・1555)には「寿松 浅井大方殿」とみえている。「浅井備前殿(浅井備前守亮政)」の「御内(内室)」といい、しかも亮政が没した天文11年(1542)以降は「寿松 浅井大方殿」と表記が変化している。寿松が亮政の妻であったことは明白である。ただし、蔵屋が浅井惣領家の嫡女として亮政と婚姻関係にあった以上、寿松は彼女を凌駕する地位を与えられたとは考え難い。側室的な立場にあったと見てよいだろう。そして、亮政自身の立場からみても当然、明政こそが正統な後継者と見なされていたにちがいない。それにも関わらず、亮政の跡目は側室所生の久政がついだことになる。しかもそれは平和裏にことが成就したらしい。つまり、明政のその後の動向は不明ながら、さきの浅井家過去帳によれば、蔵屋存命中の永禄10年、鶴千代は寿松の逆修のために高野山十輪院に日盃の祀堂金を納めている。また、同年の竹生島小島権現棟札によれば、蔵屋と寿松が連名で木材を寄進したことが見えている。蔵屋と寿松、鶴千代といった浅井家の女性の動向から見る限り、少なくとも久政派と明政派とのあいだに、亮政の後継をめぐる激しい闘争があった形跡は認めにくい。

それはなぜか。ひとつは浅井氏覇業の礎を築いた亮政の男子血統が尊ばれたことがあげられるだろう。そして、もうひとつは、実は寿松が尼子氏の出身とされることに大きな要因があった可能性がある。尼子氏は、佐々木京極導誉の嫡子高秀の子高久が犬上郡尼子郷(甲良町尼子)に拠って、尼子を称したことにはじまる。高久の子持久は出雲守護となった京極氏に従って同守護代として下向し、出雲尼子氏の祖となった。寿松は一般に近江にとどまった尼子氏の出身とされるが、久政の名乗りが尼子氏の通字である「久」と一致することを考慮すると、実は出雲尼子氏一族の出身であった可能性もあるだろう。そうとは言わずとも、当時の近江尼子氏と出雲尼子氏はまだ深い関係を保っていたのかもしれない。それは亮政と出雲尼子氏との間に意外にも深い関係が知られるからである。

すなわち、天文9年より天文11年まで、竹生島の自尊上人が出雲の尼子氏のもとへ勧進に赴いている。これは竹生島の社殿造営に関与した浅井亮政の企画であり、尼子晴久は天文11年閏3月29日付書状で、勧進への協力がうまく行かないことを詫びている。同じく尼子国久も自尊上人の長期逗留および帰国延引を浅井氏に詫びているが、この勧進は尼子氏一族・家臣121名による奉加となって結実している。竹生島への勧進をめぐる亮政と出雲尼子氏とのこうした関係の背景には、実は寿松がとりわけ竹生島を厚く信仰したことがあったのかもしれない。事実として、寿松は永禄6年に竹生島へ田地を寄進し、吊灯籠一対を奉納している。また、同9年には竹生島蓮華会の頭役を久政とともに勤め、その際に奉納した弁財天が現存する。そして、同10年にはさきに見たように、蔵屋とともに竹生島小島権現に木材を寄進したことが知られている。

寿松は明応8年(1449)生まれである。大永5年(1525)、27才ときに久政を生んだことになるが、当時の一般的な婚姻年齢から推察して、初婚であれば亮政とはおそらく永正十年代(1513〜1520)頃に結ばれたことだろう。それからおおよそ二十数年後の天文11年に亮政が没した時、尼子氏は晴久代の最盛期を迎え、中国八カ国に覇を唱える大大名となっていた。当時わずか17才の久政が大きな争いもなく、正統な後継者であるはずの明政をさしおいて亮政の跡目を継承し得た背景には存外、尼子氏の大きな力が働いていたのかも知れない。

(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 北村圭弘)

  • 浅井氏墓(蔵屋)長浜市徳勝寺浅井蔵屋墓(長浜市徳勝寺)