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孝蔵主

孝蔵主は豊臣秀吉の正室おね(北政所・高台院)の筆頭上臈(じょうろう)である。上臈とは、儀礼や年中行事、日々の有職故実のお世話をするお付きの女性の役職である。知識に長けた京の公家出身の女中が役職に就くことが多い。江戸時代にあっては、大奥に代表されるように、男の世界であった武家政権の裏方ではあるが、大きな実権を持つ場合があったという。孝蔵主の名前は雅名である。当時の女性であるため正しい名や生まれは不明であるが、父が蒲生氏家臣の川副勝重と云われている。

おねに仕え始めた正確な年月は、記録が残っていないため不明である。もっとも古い記録は、天正13年(1585)3月に秀吉が貝塚源泉寺に禁制を下した時である。強攻策をとる秀吉に対して、おねは、寺に孝蔵主を派遣し、その真意を伝え平和融合政策をとった。これをかわきりに孝蔵主の役割は、おねと豊臣家の奥を取り仕切る責任者として大きくなっていく。

聚楽第が完成し、おねたちが住まいを移してからは、おねが天皇家と絆を深めるために頻繁に朝廷に参内しているが、これに対しても孝蔵主が活躍している。たとえば、天正17年(1589)5月に淀殿が生んだ「鶴松」に天皇家から太刀が与えられると、おねがその返礼の使者として孝蔵主を立て銚子を入れる袋を進上させている。天正18年(1590)、謀反の疑いを懸けられた伊達政宗への詰問書を秀吉の代理として送ったり、慶長2年(1597)、朝鮮の役の蔚山城の戦いでの失態で小早川秀秋の移封が決定した時にも、その取り次ぎを行っている。また、秀吉が豊臣秀次を責めた時も、秀次に出頭をうながす役目を命じられたりもした。これらのことから「表のことは浅野長政、奥のことは孝蔵主」と揶揄されるほどであった。

おねと孝蔵主との行動は、秀吉が没した慶長3年(1598)以降も続いた。おねは豊臣家の行く末を案じ、秀吉の菩提を弔いながら、公家の西洞院家に対しては4年にも及ぶ厚い関係を続け、そこでは様々な物のやりとりが続けられた。その使者にも孝蔵主が深く関わっていた。これは孝蔵主が西洞院家の妻と姉妹であったからではないかという説があるが定かではない。

慶長4年(1599)、おねと共に大坂城を退き、京に移った。その後も、おねに従い大津城の戦いの講和交渉などを務めた。このように、孝蔵主がおねとの篤い信頼関係を築きながら、豊臣家の為に各方面へ精力的な働きかけを果たしていたのである。慶長19年(1614)、その才能を買われて徳川秀忠付き上臈として江戸に移り余生を送った。そして、寛永3年(1626)4月、長い時代を生き抜き辣腕をふるった孝蔵主は没した。子はなく甥の川副重次を養子として200石を嗣がせたといわれている。墓所は東京都荒川区西日暮里の南泉寺にある。(参考資料:田端泰子『北政所おね』)

(滋賀県教育委員会文化財保護課 木戸雅寿)

  • 孝蔵主墓孝蔵主墓(東京都南泉寺)
  • 孝蔵主墓銘文(東京都南泉寺)孝蔵主墓銘文(東京都南泉寺)
  • 大津城跡(大津港)大津城跡(大津港)
  • 大津城石碑大津城石碑