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見久尼
見久尼 関係図
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見久尼は浅井長政の姉とされる。出家前は阿久と呼ばれていた。身長は5尺8寸(約176cm)、体重は28貫(約105kg)あったといい、当時としてはたいへん大柄な女性であったらしい。伝承によると、天文11年(1542)3月5日、すなわち阿久が19才のとき、父久政は浅井郡尊勝寺村枝郷平塚村(長浜市平塚町)の庄屋平野左近助に依頼して、当時無住であった実才庵を再興させ、そこに阿久を入れて見久尼と名乗らせたという。史実としても『徳勝寺受戒帳』天文15年(1546)2月24日の徳昌寺での受戒者に「見久 平塚実際庵」と見えている。阿久はこのときすでに出家して見久尼を名乗り、実才庵(史料上は実西庵、実際庵、昭和29年に実宰院に改称)に住まいしていたことが知られる。

そして、実宰院に伝わる位牌によると、見久尼は天正13年(1585)に49才で没しているから、天文6年(1537)生まれであることがわかる。したがって、天文11年出家伝承に従えば、阿久はこのとき6才、史実としても天文15年10才の時には出家していたことになる。竹生島に伝わる『蓮華会頭役門文録』によれば、久政は永禄8年(1565)に41才であったから、大永5年(1525)の生まれになる。阿久が天文11年の出家時に19才であれば、久政よりも1才年長になってしまうので、この説は成り立たない(実は亮政の娘とする説もある)。阿久は幼少より仏道に入ることを志したということであろう。

ところで、実宰院の伝承によると、天正元年(1573)の小谷落城を目前にして、浅井長政は娘たち(長女茶々、次女初、三女江)の行く末を心配し、姉の見久尼に三姉妹の養育を依頼したという。そして、実際に市と三姉妹が小谷城から落ち延びたとき、彼女たちは古い野良着に着替え、盛秀ら3人の侍女に伴われて実才庵まで送り届けられたという。長浜市北野町に現存する盛秀墓碑によれば、盛秀は天正元年4月4日に没しているので、市と三姉妹の小谷城脱出はそれ以前ということになる。天正元年9月1日、市と三姉妹はこうして実才庵で小谷落城を迎えることとなったが、その後しばらくして信長の軍勢が実才庵に残党狩りにやってきた。このとき見久尼はとっさに自分の大きな法衣のなかに三姉妹を隠して難を逃れたという。そして、さらに天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦によって、市が柴田勝家とともに自害した後、見久尼は孤児になった三姉妹をしばらくのあいだ養育したとも伝えられる。

以上のことは、小谷城下の村々にのこされた伝承であり、史料によって裏づけることは難しい。しかしながら、たんなる昔話としては片づけられない証拠がある。浅井三姉妹と実才庵とのただならぬ関係をうかがわせる史料である。実宰院に伝わる慶長2年(1597)年5月1日付けの豊臣家奉行連署状がそれである。すなわち、長束正家・増田長盛・浅野長政・前田玄以の4奉行が連署して京極高次に宛てたもので、その内容は、実才庵の跡目については現住持尼の望み次第とすることを、秀吉の許可を得た上で伝えている。京極高次がこの庵の運営に深く関わっていたこと、さらにその住持のことについては秀吉に報告し、許可を得ることが必要であったことが知られる。また、秀吉は天正19年に実才庵に50石を宛行い、徳川秀忠も朱印状をもってこれを安堵している。豊臣家は長女茶々、京極家は次女初、徳川家は三女江の婚家であり、実才庵は三姉妹と深く関わっていたことが知られる。こうした事実をふまえると、実宰院に伝えられる見久尼像が茶々の寄進とする伝承も真実味を帯びてくる。いずれにせよ見久尼は浅井三姉妹の伯母として、彼女たちにとってかけがえのない存在であったことは確かである。

(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 北村圭弘)

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