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春日局

関係図
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謀反人の娘

春日局(福)は明智光秀の家臣斎藤利三の娘である。利三は、光秀家臣の中でもトップランクの重臣で、天正10年6月1日、本能寺の変の前日、織田信長に対する謀反を計画するメンバーの一人として斎藤利三の名前があがっている。また、光秀の丹波支配においては、黒井城主として周辺地域の支配を担当しており、白毫寺の住僧に対して陣夫役を免除することをうたった斎藤利三の発給文書が残されている。

本能寺の変とそれにつづく山崎の戦いでの明智軍の敗北は、斎藤利三・福親子の運命を大きく変えた。父利三は、本能寺の変の後、捕らえられて処刑された。一方本能寺の変の当時、福は丹波にいたと思われる。その後の混乱をどのように生き延びたかは不明であるが、絵師の海北友松の庇護を受けていたともいわれている。友松は斎藤利三と交流があり、後年、友松の子で絵師の友雪が春日局の推挙で徳川家光の御用を勤めているが、それはこの時の縁によるものとされる。

その後は母方の縁戚である三条西家に預けられ、後伯父の稲葉重通の養女となった。その縁で稲葉正成の後妻となり、正成との間に四人の男子をもうけている。稲葉正成は小早川秀秋の重臣で、関ヶ原合戦の前に徳川家康に通じ、小早川秀秋の東軍への寝返りを実現させた。

徳川家光の乳母となる

慶長9年(1604)、徳川秀忠の嫡子竹千代(のちの三代将軍徳川家光)誕生に伴い、福はその乳母となった。乳母となった経緯については明らかではないが、一説には徳川家康の指示とされる。福が選ばれた理由も明らかではないが、三条西家に預けられた時に和歌・書道などの教養を身につけたことが評価されたともいわれている。この時、福は夫正成と離縁しているが、この後も両者は良好な関係にあったようである。

福は献身的に竹千代に仕え、その養育に力を注いだ。家光が疱瘡にかかった時は、その平癒を祈願して生涯薬を飲まないことを誓ったという。

こうした福の態度が後年、徳川秀忠の御台所であった江との確執に結びつけられているようである。竹千代誕生の二年後慶長11年(1606)、江は国千代(のちの徳川忠長)を産んでいるが、江は、福が竹千代を手元に置いて自身から遠ざけていることから、国千代は自らの手元で育てたいとし、秀忠側近の土井利勝の妹を乳母に付けている。これが後年の三代将軍をめぐる竹千代と国千代との争いにつながっていく。江は、自身と疎遠で病弱な竹千代よりも、自身に近く、聡明な国千代を三代将軍にしたがったというのである。秀忠もまた江と同じ意向を持っていたため、竹千代の将来を危ぶんだ福が、徳川家康のもとに直訴におよび、家康があらためて竹千代こそが嫡男であることを認めたという。『徳川実紀』にはこのときの様子が書かれている。家康が駿府から江戸へ出てきた時、秀忠はじめ一家のものが挨拶に出た。その時家康が竹千代を手元に呼んで上段に座らせようとしたところ、国千代も同じように上段にのぼろうとしたので、家康がそれを制止し、下段に座らせた。つづいて菓子を与えたが、竹千代にまず与え、その後国千代に与えた。竹千代と国千代との立場の違い、序列を秀忠・江夫妻に対して決定づけたのである。家康は江に向かって、家を継ぐ嫡男とそうでない庶子との区別は幼い頃より明確にしなければならず、長じて国千代は竹千代を守る有力な家臣とならねばならないことを肝に銘じよと諭した。

しかしながら、こうした出来事が実際にあったかどうかは定かではない。後年徳川忠長は改易となっているが、そのことを正当化する上で幼年より身の程をわきまえないところがあったことを示す意味でこうした逸話が生まれたとも考えられる。また江と福との確執についても、当時は嫡男が母親の手元を離れて養育されるのは当然のことであり、江がそのことに不満を持つとは考えにくい。強いてこうした話が生まれた背景を探るなら、家康を中心とする駿府派と、秀忠を中心とする江戸派との確執に求められよう。家康側近の本多正純の失脚などはまさに両派の確執によって引き起こされた事件で、竹千代と国千代の間に三代将軍をめぐる後継者争いが存在したとすれば、それは江と福の確執といったものではなく、幕府内の駿府派と江戸派の権力争いが波及したものといえるのではないだろうか。

紫衣事件と福の参内

福は単に乳母として竹千代の養育に専念していたわけではない。三条西家で身につけた教養を活かし、紫衣事件をめぐる宮中との交渉に関わっている。

紫衣事件は、後水尾天皇が幕府に無断で紫衣勅許を行っていたことをめぐる一連の騒動である。慶長18年(1613)、幕府は紫衣勅許に際し、事前に幕府に申し出ることを法度で定めた。これはその後に定められた禁中並公家諸法度へと続く、幕府による朝廷統制策の一つである。しかし、後水尾天皇はその後も幕府に諮ることなく紫衣勅許を続けたため、寛永4年(1627)7月、幕府はこれまでに無断で下された紫衣勅許の無効を宣言した。これに対し、大徳寺の沢庵らが抗議文を提出、幕府もある程度既成事実を認める代わりに詫状を提出させることで穏便な解決を図ろうとした。しかし、沢庵等強硬派が詫状の提出を拒否したため、沢庵以下四名の僧侶を配流処分としたのである。こうした経過の中、幕府のやり方に嫌気がさした後水尾天皇が譲位の内意をもらしたため、その説得のため福が派遣されたのである。

寛永6年(1629)8月に福は伊勢神宮に参拝し、そのまま10月に上洛し御所への昇殿を行おうとしたが、武家の身分では御所参内の資格を欠くため、三条西実条の猶妹として参内し、後水尾天皇や中宮和子(徳川秀忠と江の娘)に拝謁した。このとき、従三位の位階と春日局の称号を得、天盃を賜っている。あるいはこの時の参内を後水尾天皇に譲位を促すためと見る向きもあり、また、参内などとうてい許されない身分でありながら、幕府の威光を背景に参内を実現させた福の強引さに、後水尾天皇は譲位の意思を固めたとする考えもあるが、前後の経過を考えるといずれもあたらないだろう。幕府は天皇譲位まで求めていたわけではなく、後水尾天皇自身も福の参内以前から譲位の意向を示しており、福の参内が譲位の引き金となった訳ではない。いずれにせよ、この時の福の説得もむなしく、11月に後水尾天皇は譲位し、明正天皇(和子の娘)が即位する。

福はこの3年後の寛永9年(1632)にも上洛し、従二位に昇進するとともに緋袴着用の許可と再度天盃を賜った。

大奥誕生

ドラマでも有名な大奥は、将軍家の奥向きの御用を果たす部署で、女性ばかりがいるところである。徳川家康の代から江戸城には大奥が存在したが、このころは表との境界があいまいで、大奥が将軍のプライベート空間として明確に位置づけられたのは二代将軍秀忠の時である。元和4年(1618)大奥法度が制定され、以後制度や組織が整備されていく。秀忠の御台所江を頂点として大奥が整備されていき、江の死後、福が大奥の実権を握るようになった。しかし福自身は奥にとどまらず、松平信綱等表の幕閣ともつながりを持ち、また自身の息子である稲葉正勝や孫の堀田正盛が家光の側近となって活躍するなど、家光政権を支える重要な役割を担っている。

もちろん奥の勤めも怠ってはいない。もっとも重大な任務である将軍家の後継者誕生については、家光と正室鷹司孝子との間が不仲であったことから、多くの側室を家光に薦め、その甲斐あってか四代将軍家綱、甲府宰相綱重(六代将軍家宣の父)、五代将軍綱吉などの男子を誕生させている。

このように、初期の江戸幕府において、福の果たした役割は、幕政から将軍家の奥向きまで非常に幅広く、女性ではあるが、福は幕府の礎を築いた重要人物の一人に数えられよう。

(滋賀県教育委員会文化財保護課 松下 浩)

【参考リンク】 近江にある春日局ゆかりの地 : [百済寺] [多賀大社]
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