1. HOME
  2. 特集 近江の姫たち

市

市

浅井長政夫人像(安土城考古博物館蔵)

関係図
  • 拡大して見る

「さらぬだに 打ちぬる程も なつの夜の わかれをさそふ ほととぎすかな(『太閤記』「勝家切腹之事」 

これは享年37歳。自らの命を夫柴田勝家と共に終えた小谷の方とも呼ばれたお市の方の辞世の句である。彼女の名、ただしくは市。織田信長の妹である。 戦国時代の女性は数奇な運命をたどっているが、まさしく市もそのひとりである。市といえば、絶世の美女であったとのいい伝えがあり、歴史ドラマでは故夏目雅子をはじめとする数々の美人女優が役を演じてきた事でも広く知られている。

永禄10年(1567)、美濃を攻略した信長であったが、美濃と京の間に立ちはだかる近江の地に手を焼いていた。そんな時に目を付けたのが浅井氏であった。浅井氏はもともと、江北の守護であった京極家の家臣であったが、当時次第に勢力を拡大し押しも押されぬ戦国大名となっていた。当主の長政は、その時すでに佐々木六角の宿老で栗太郡の領主であった平井定武の娘を娶っていたが、信長はそれを離婚させて長政と市を政略結婚させた。これにより織田家と浅井家の同盟がなった。信長は戦わずして近江を手に入れたのだ。

当初、市は悲嘆に暮れていたと云われているが、いざ長政と対面するとその男ぶりに一目惚れし、ふたりの仲は周りが羨むほどであったという。しかし、時代はそんなふたりを長く見守ることはなかった。延暦寺をはじめとする反信長勢力は、越前の朝倉氏と連携を図り信長の背後を脅かすようになる。それを見た信長は、元亀元年(1570)に朝倉義景を攻めた。朝倉家とも同盟していた浅井家では、信長につくか朝倉につくかで家中が二分した。結果、浅井氏は信長を裏切ったことにより友好関係は崩れ、政略結婚は失敗に終わった。この折、両端を縛った「小豆袋」を信長に送り、危機を知らせた逸話は有名である。その後、姉川の戦いで浅井朝倉軍は壊滅。天正元年(1573)、浅井氏が楯籠もる小谷城は、羽柴秀吉を中心とする織田軍に陥落させられる。

久政・長政の浅井当主は自害、長男の万福丸は殺害され、次男の万寿丸は出家した。市と茶々(豊臣秀吉側室)・初(京極高次正室)・江(徳川秀忠継室)の三人の娘らとともに、もう一人の兄の織田信包に引き取られ清洲城で九年余りを過ごしたという。

信長は天正10年(1582)、本能寺の変で明智光秀に討たれ、政権は秀吉へと移り、市は柴田勝家と再婚した。天正11年(1583)4月、秀吉と勝家との政権争いを経て、賤ヶ岳の合戦で柴田軍が敗走、勝家は越前北の庄城で籠城するも背水の陣。勝家は自害を決意するが、市らには秀吉の誘いに応じ城を出るよう勧めた。しかし、市はそれを聞き入れなかった。そこには小谷城陥落の記憶、長男の殺害、秀吉の市への横恋慕など、市の秀吉嫌いがあり、生き延びれば秀吉の側室に強要されるだろうとの思いが強かったと云われている。なお、後に秀吉が茶々を側室に迎えたのは、三姉妹の中でもっとも市に似ていたからだとも言われている。 いずれにしても、市は勝家とともに城で自害をして果てた。

「去秋の終り、岐阜よりまいり、斯(かく)みえぬる事も前世之宿業、今更驚べきに非ず。ここを出去ん事、思ひもよらず候。しかはあれど三人之息女をば出し侍れよ。父之菩提をも問せ、又みづからが跡をも弔れんためぞかしと、」(『太閤記』「勝家切腹之事」)と母は、乱世の数奇な運命とあきらめ、三人の娘たちに将来を託した。そして、彼女たち「浅井三姉妹」もまた戦国の世を駆け抜けていったのである。

市の姿は、長女の淀(茶々)が父長政の十七回忌もしくは慶長11年(1606)頃に描かせた肖像画(高野山 持明院蔵)にみることができる。墓所は福井県福井市西光寺、菩提寺は福井県福井市自性院や滋賀県高島市幡岳寺にある。また、滋賀県長浜市小谷寺には、市の念持仏と伝えられている愛染明王がいまに伝えられている。

【メモ】
市と浅井長政が輿入れした年については諸説あり、そのうち永禄10〜11年説と永禄4年説についてみてみることとしよう。
通説である永禄10〜11年(1567〜68)とすると、天文16年(1547)生まれとされる市は、当時21,2歳であったことになる(奥野高広「織田信長と浅井長政の握手」『日本歴史』248、1969年)。ただし、この説を採ると市が初婚とした場合少々歳を取りすぎているとの批判もある。
一方で浅井長政は、六角義賢の「賢」の字をもらい「賢政」と名乗っていたが、永禄3年に妻であった六角家臣の平井定武の娘を離縁し、織田と同盟を結び「長政」と改名した。この頃(永禄4年)に市が輿入れしたとする説がある(宮島敬一『浅井三代』吉川弘文館、2008年)。この説によると、市が輿入れした年齢は、当時の一般的な初婚年齢である15歳前後であることからも妥当性があるとする。
市の輿入れした年を明示した同時代資料はなく、今後も諸説並立するのであろうか。

(滋賀県教育委員会文化財保護課 木戸雅寿)

  • 小谷城桜馬場からみた琵琶湖と竹生島小谷城桜馬場からみた琵琶湖と竹生島
  • 賤ヶ岳から見た余呉湖賤ヶ岳から見た余呉湖