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日野富子と今参局

日野富子

日野富子

関係図
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足利義政の妻妾として

日野富子(一四四〇〜九六)と今参局(いままいりのつぼね)(生年不詳〜一四五九)は、足利義政の妻妾である。富子が正室、今参局は側室だが、義政との関係はむしろ今参局の方が先にあった。康正元年(一四五五)一六歳の富子が二〇歳の青年将軍・義政と結婚したとき、新郎義政はすでに今参局ら複数の側室をかかえ、三人の娘をもつ父親ですらあった。

もちろん一夫多妻制の中世社会の中で、武家の正室が側室より後に迎えられることはままあることである。しかしながら、今参局の場合はもともと義政の乳母(めのと)でもあったといわれており、だとすればさすがに異常な例だといえる。一六歳の富子が輿入れしたとき、夫・義政の「後宮」には乳母あがりの愛妾として、今参局が君臨していた。今参局は義政にとって、実の母である日野重子よりもはるかに、肌身近しい母親的存在であった。富子には、前途多難な結婚生活が予期されていたのだ。

日野富子は永享十二年(一四四〇)、日野政光と今小路苗子との娘として生まれた。日野家は藤原北家の流れを汲む公家で、足利将軍家と密接な関係を築いて勢力を誇った。富子は三代将軍義満いらい、歴代の正室を独占してきた日野家に生まれ、将軍の正妻になるべくしてなった女性だといえる。一方の今参局というのは、固有名詞ではなく「新参の局」という意味の女官名称である。そう呼ばれた女官は史上にあまたいたが、こんにち一般に「今参局」といえば、大館(おおだち)満冬の娘で足利義政の側室であった女性のことを指す。「太閤」といえばもっぱら豊臣秀吉を指すような類である。実名すら伝わらない「大館氏のむすめ」が、日本史上の「今参局」を代表していることは、一時代における彼女の権勢の大きさを象徴してやまない。

今参局の失脚と近江での死

富子の入輿後も今参局の勢力は強大さを増しつづけ、ついには幕府政治にすら介入する動きを示した。宝徳三年(一四五一)、彼女は義政将軍を通して尾張守護代の織田敏広をやめさせ、一族の郷広に代えようと画策した。それに対してわが子を強く諫めたのが日野重子で、管領畠山持国、細川勝元、山名持清ら重臣もそろって反対したので、ついに事はおこなわれなかった。しかしながらその後も今参局の権勢は衰えをみせず、その専横ぶりが世上のうわさにのぼるまでになった。「その気勢焔々として近づくべからず、その為す所はほとんど大臣の執事の如し」(『碧山日録』)炎のごとき気勢の彼女には近づくことすらはばかられ、大臣執事に準じるほどの実権を備えていた。そんな今参局(お今)を落首では「三魔」の一人とまで評した。「政(まつりごと)は三魔(ま)(お今(いま)・烏丸(ま)資任・有馬(ま)持家)より出ず」というのである。

今参局の権勢が頂点に達した長禄三年(一四五九)正月、正室日野富子が姫を出産した。しかしながらすぐに早世したことから、今参局の呪詛によるものと風説が立ち、彼女は捕らえられることになる。今参局を捕らえたのは侍所所司代・京極持清であった。『尋尊大僧正記』によると、「若君則ち早世の事、かの局調伏故とて、さる十三日召しとられ、十四日隠岐国に配流、或は辛崎(唐崎)にて沈めらる由、風聞云々。」と記録される。ここで、隠岐国とあるのは琵琶湖の沖ノ島(近江八幡市沖島町)であるとするのが定説になっている。彼女は配所に赴く途中、同年正月十九日に「近江蒲生郡甲良荘」の仏寺で自害して果てた。尋尊は、女の切腹は珍しいと評している。

ただ、ここで滋賀県に土地勘のある者は疑問を抱かずにはおられない。まず、京極氏の本拠地であった甲良荘(現甲良町)は犬上郡に所在し、蒲生郡ではない。また、蒲生郡甲良荘が犬上郡甲良荘の誤りであるとすれば、沖ノ島より遙か北に所在するので、「配流の途上」という説明が成り立ちがたい。史料を素直に解釈するなら、今参局は本当に、京極氏が守護職を勤める隠岐国に流される決定を受けたのかもしれない。京極氏が彼女を護送したと仮定するなら、北近江経由で日本海方面に出て、出雲、隠岐へと至るのは自然な経路だといえる。その途中、京極氏の本拠地で、運命を悟った今参局は自ら壮烈な腹切りを遂げたのであろう。

ところが、史料解釈だけでは割り切れない不思議な話がある。今参局が辿り着かなかったはずの琵琶湖・沖島に、なぜか「今参局伝説」が残っているのだ。沖島に鎮座する「雨乞い弁天さん」の由来譚がそれである。沖島に流され惨殺された今参局の怨念を恐れた島の先人は、磯内湖(現米原市)から雨乞いの弁財天を勧請して懇ろに供養した、という。一世を風靡した今参局が近江路で衝撃的な最期を迎えたという事実が、こうした伝説を生み出す源となったものであろう。

日野富子と近江路

日野富子もまた、近江路にゆかりの深い人物であった。今参局が死去して六年後、寛正六年(一四六五)に富子は男子(義尚)を生んだ。すでに義政の弟・義視が後嗣として将軍の養子になっていたため、そのことが将軍家内部での対立を生み、応仁の乱の原因となったことは周知の通りである。文明五年(一四七三)、わずか九歳で元服した足利義尚は征夷大将軍に任じられた。応仁の乱で政治に関心を失っていた夫の義政に代わって、日野富子は将軍後見人として幕府政治の運営に実権を発揮することになる。義尚は文明十一年に成人して執政開始の儀式を行ったが、この頃から大御所義政が再び幕政に介入するようになり、かえって将軍義尚の執政権をおびやかすようになった。

義尚は父・義政に対して反抗的な行動をとるようになり、髻(もとどり)を切って出家しようとしたり、あまつさえ父と愛妾を奪いあったりまでした。富子の心痛や推して知るべし、である。そんな折の文明十三年、一七歳の息子を連れて、富子は初めて近江葛川の明王院(現大津市)を訪れた。相応和尚が開いた修験の道場・明王院には、毎年旧暦六月と十月に天台の行者が参籠(お籠り)し、霊瀑三の滝に不動明王の姿を感得することを祈念した。室町期には在俗の信者も参籠するようになり、参籠の記念として木造の卒塔婆を奉納することが流行した。三代将軍足利義満も、参籠札と呼ばれるその卒塔婆を残している。

文明十三年(一四八一)に日野富子と足利義尚がそれぞれ奉納した参籠札は、今に伝えられる。参籠札は自筆のものと考えられ、日野富子の肉筆を知ることができる貴重な史料である。堂々とした運筆、たっぷりと豊かな線条で書かれた文字の力強さは、富子の人柄や立場をよくしのばせる。自然豊かな霊地・葛川にお籠もりした母子は、邪魔者なく夜通しで話し合ったことであろう。ここで注意しておきたいのは、義尚はわけもなく親父に反抗する不良青年などではなく、現役の征夷大将軍であったということである。夫と息子の反目に挟まれた富子自身も、史上稀なる女性実権者であって、大御所義政をあわせ、当時の幕府政治における三極を占める実力者たちであった。鼎立する三極のうち、富子と義尚の二人が談合・結託すれば、義政は独り取り残されざるをえない。文明十九年(一四八七)六月、二三歳になった義尚は、再び富子と葛川参籠をおこなう。同年九月、義尚は幕府直轄軍と奉行人(幕府官僚)をほぼ根こそぎ引き連れて、近江国に出陣した。打倒すべき敵方は、近江守護職・六角高頼であった。六角氏は近江の各地で荘園の押領行為を働いており、被害を受けた寺社や公家などの領主たちが幕府に訴えていたのである。義尚は栗太郡鈎(現栗東市)に陣営をおき、およそ一年半滞在したため、この軍事行動を世に「鈎の陣」と呼ぶ。

鈎幕府と義尚の行く末

だが、筆者は近年、これまで軍事行動上の作戦司令本部といわれてきた「鈎の陣」が、実は幕府中枢機構の移動であり「鈎幕府」と評価すべきだという説を提唱している。先に指摘したとおり、将軍足利義尚は成人後も父である大御所義政に邪魔されて、将軍権力を充分に執行できずにいた。そこで葛川で日野富子と政治談合を行い、幕府を近江に移動することについて承認と経済的援助を取り付けたのであろうと推測するのだ。富子と義尚は将軍出陣を建前に、義政のもとから幕府官僚を引き離して義尚への権力移譲を強引に進めようとした。将軍権力は文書を発給することにより執行されるが、それを実務的に行うのは奉行人と呼ばれた幕府官僚たちであった。鈎幕府への移動によって、義政はほとんど文書を出すことができなくなり、専ら義尚が幕府の重要文書を発給することとなった。それこそが、近江出陣の真の目的であったと筆者は見ている。いうなれば、鈎幕府は富子と義尚による、義政体制に対するクーデター行為であった。

長享元年(一四八七)十月四日、義尚は小具足を着け、乱髪姿で馬に乗り、幕府軍を従えて、颯爽たる若武者ぶりを見せつけながら鈎の地に入った。その報を聞いた母・富子は、愛息が幕府の実権者に成長したことを、心から喜んだことであろう。ところが、母としての富子の幸せは残念ながらそこが頂点であった。

義尚は鈎幕府で結城政胤・尚豊兄弟、二階堂政行、飯尾清房といった近臣を重んじて政治の一新を図ろうとしたが、期待に反して彼らは専横をほしいままにするばかりで評判芳しくなかった。寺社や公家、守護大名らは悪しきとりまきをのさぼらせる将軍自身にも不信感をつのらせ、幕府をめぐる人間関係は極めてぎくしゃくしていった。一方、鈎幕府の周辺では、細川政元と陰で手を組んだ六角氏のゲリラ活動によって、しばしば放火による火災が生じた。義尚は次第に酒色におぼれ勝ちとなり、長享三年(一四八九)三月、重い病にかかってしまう。水と酒しか飲まず、吐血し、色々とできものがあったという。この事態に母・富子は十八日に急ぎ鈎幕府へ見舞いに訪れたが、三月二十六日巳刻、義尚はあっけなく死去した。

義尚の遺体は防腐処理を施されて桶に入れ、三月三十日、板輿に乗せて京都に運ばれた。近習や諸大名が従ったが、日野富子も鈎から京都まで同道したという。義尚の葬儀はその後京都等持院で行われたが、等持院に向かう葬列のなかで、富子は輿の外に聞こえるほどの声で号泣した、と伝える。とかく悪女とか男勝りといわれる富子の、人として母としての実像を伝えるエピソードである。富子は義尚の死後も後継将軍の決定に関わり続け、幕府政治の屋台骨を支え続けた。死後は「七珍万宝」といわれる多くの遺産を残したといわれるが、恐らく近江で愛息・義尚を失ってからの彼女の人生は、精神的に満たされない、空虚なものであったに違いない。そういう意味で今参局と日野富子のたましいは、ともに近江の地に眠っている、ということができるのではないだろうか。

(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 井上 優)

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