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  2. 特集 近江の姫たち

初

初

常高院(常高寺蔵)

関係図
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お初は浅井3姉妹のなかでは、もっとも普通の結婚をした。その夫は京極高次。近江きっての名門、バサラ大名として知られた京極道誉の直系子孫であり、浅井氏の主家の御曹司でもあった。母マリアは父長政の姉であるから、お初とは従兄になる。婚儀は天正15年(1587)。高次25才、お初18才のときのことである。冒頭で「もっとも普通の結婚」といった理由は、茶々やお江とは異なって、お初が天下人とは結ばれず、また一人の夫に添い遂げたという意味においてである。

結婚当時、高次は近江大溝城主一万石の小大名であった。これ以降、高次は加増を重ね、天正18年には近江八幡山城二万八千石、文禄四年(1595)には大津城六万石を領知することとなる。妹龍子(松ノ丸殿)と妻の姉茶々(淀殿)のいずれもが秀吉のお気に入りの側室であったからこその加増といわれる。ホタル大名。女たちの尻の光で出世したという意味のありがたくないアダ名は、こうした姻戚関係にもとづき、高次が優遇されたことに由来するという。ことの真相はともかく、死を目前にした秀吉がお初への形見分けの如く、江州蒲生郡長田村と野田村(近江八幡市長田町・野田町)において所領二,〇四五石を宛行っている事実をふまえれば、まんざらの噂でもなかったようだ。いずれにせよ、高次にはいかにも頼りなさげな貴公子のイメージがつきまとう。そもそも天正10年の本能寺の変の際、高次は明智光秀に誘われて味方し、秀吉の居城長浜城を攻めている。そして、光秀が敗死すると、今度は柴田勝家のもとに走り、またもや秀吉と敵対した。つまり、ことごとく情勢を読み誤り、窮地に陥っている。高次がようやく命拾いできたのは、秀吉が若狭の武田元明を攻め滅ぼした際、その妻であった龍子を気に入ったことによるという。

慶長5年(1600)、そうした高次が一世一代の大仕事をなし遂げた。すなわち、関ヶ原合戦の直前、高次は西軍の北陸討伐軍にしたがったものの、これが関ヶ原に向けて転進すると、9月3日には大津城に帰り、兵を要所に配置して籠城した。そして、関ヶ原合戦の前日の14日まで一万五千の大軍を大津城に引きつけ関ヶ原に向かわせなかった。勝利した家康はこの功績を高く評価し、高次に若狭一国八万五千石を与えている。そして、翌年には近江高島郡で加増され、都合九万二千石を領知することとなった。

慶長14年5月3日、高次は戦国の荒波にもまれ、浮き沈みを繰り返した波乱の生涯を47才で終えた。実はお初の活躍は、落飾して常高院となってからが顕著となる。つまり、出家して比較的自由な立場を得たらしく、豊臣と徳川、つまり姉茶々と妹お江の婚家のあいだに立って、両者間を奔走する姿が伝えられている。

慶長19年の大坂冬陣の最終局面、大坂城には常高院となったお初がいた。そして12月18日、豊臣と徳川との第1回和平交渉が京極忠高(高次側室所生)の陣所でおこなわれている。このとき、お初が大坂城から出て使者となり、徳川方からは家康側室の阿茶局が出向いて交渉した。阿茶局は家康の代弁者であったが、お初は開戦時にたまたま大坂城にいただけであり、そもそも京極家は徳川方として攻め手側にあった。そうしたなかで豊臣方のメッセンジャーとしてお初に白羽の矢が立った理由は、はやりその血縁および姻戚関係によるところが大きかったのだろう。ともあれ、豊臣と徳川との和平は翌19日に同メンバーによる第2回和平交渉によって成立した。

ところがはやくも翌慶長20年の3月頃から、豊臣と徳川との対立が再燃する。お初はこのときも家康の最後通牒を豊臣方につたえる役割をになっている。しかし、4月26日に豊臣方が大和郡山城を攻撃し、ほどなく大坂夏の陣がはじまった。5月6日の道明寺の戦い、若江の戦い、八尾の戦い、さらに翌7日の天王寺口の戦い、岡山口の戦いで、豊臣方の名だたる武将たちが討死し、敗走兵がつぎつぎと大坂城に駆け込んでくる。そして5月7日の午後5時頃、いよいよ豊臣方は大坂城本丸に閉じこめられるかたちになってしまった。お初が茶々に別れを告げ大坂城を脱出したのは、ちょうどこの頃であった。同じ境遇にあった女中お菊の語るところによれば、お初は武士に背負われ、負傷した足を押さえてもらっていた。そして、やがて守口のある民家に立ち寄り、二畳ほどの筵の上で食事をとり休んでいると、そのうちに家康から迎えの輿がやって来て、無事に落ち延びることができたという。

寛永10年(1633)8月27日、お初は64才で没した。このとき、生前に仕えた侍女7人は尼となり、若狭小浜に七尼寺を建立した。また、常高院が荼毘に付された常高寺裏山のその場所には常高院の墓が建ち、それに対面して七侍女の墓も建つ。そして、常高寺にはお初が京極忠高に宛てた遺書(写)が伝わっている。それによれば、お初に仕えた侍女や小姓、用人らの生活や行く末を頼み、また高次の妹古奈姫や、近親である浅井作庵の面倒をみてくれるよう頼んでいる。

お初は豊臣と徳川との和平交渉を担ったように、茶々や秀頼、また家康の信頼も厚く、大坂城脱出時の対応を見ても、沈着冷静な判断ができる賢明な女性であったようだ。また周囲の人たちへの気遣いもあって、多くの人に慕われた人生を送ったとみられる。

(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 北村圭弘)

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