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  2. 特集 近江の姫たち

江

江

崇源院(養原院蔵)

関係図
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浅井三姉妹

お茶々、お初、そしてお江。

「三女トモかくれなき(無隠)美女」(『徳川幕府家譜』)。近江小谷城主浅井長政の忘れ形見、浅井三姉妹はその母お市に似て、たいそう美しかったと伝える。しかし、そうした美貌から受ける印象とはうらはらに、お市と三姉妹は骨肉相争う戦乱の世に翻弄されつつも、つよくたくましく波瀾万丈の生涯を生き抜くこととなる。

末娘お江が生まれた天正元年(1573)、小谷城が落城。父長政が自害に追い込まれるなか、お市と三姉妹は小谷城から落ち延びる。攻め手は母の兄織田信長。勝利した信長は妹と三人の姪を自らの手のうちで養育する一方、正月には義弟長政らの髑髏を酒肴に祝杯をあげている(『信長公記』)。しかし、その信長も天正10年(1582)の本能寺の変で滅亡。三姉妹は母の再嫁に伴って柴田勝家に養われるが、勝家もまた翌年の賤ヶ岳合戦で羽柴秀吉に敗北し、お市とともに自害する。三姉妹は落城の劫火のなかを再び助け出されたものの孤児となった。もはや三姉妹にとっては秀吉のもとに身を寄せるしか生きるすべがなかった。たとえ、秀吉が小谷城攻めの功臣として父を滅ぼして大名となり、今また母と義父を滅ぼして天下人になろうとしていようとも。

お江 波乱の生涯

政略の持駒。実子に恵まれなかった秀吉は、織田家の血統をひく三姉妹をこのように見ていた節がある。そして、最初に指された駒。それがお江であった。賤ヶ岳合戦の翌年である天正12年、(1584)わずか12才のときである。こののち、お江は生涯のなかで三度の結婚をすることとなる。

お江のはじめての結婚相手は佐治一成16才。尾張知多半島の喉元を拠点に、有力な水軍を配下にもつ若き大野城主であった。織田信長はその父信方に妹お犬を嫁がせていたから、一成とお江とはいとこ同士ということになる。当時、一成は信長二男信雄の家臣であり、お江との結婚は秀吉と信雄との政略のなかで成立した。しかし、その年のうちに信雄は徳川家康をさそって小牧・長久手で秀吉と戦うこととなる。そして戦後、秀吉は一成が自分に味方しなかったことに怒り、お茶々の病気見舞いを口実にお江を呼び戻し、一成のもとへは二度と返さなかった。幼い夫婦の、一年にも満たない結婚生活であった。

お江がつぎに嫁いだ相手は、秀吉の姉「とも」の子の羽柴小吉秀勝である。秀勝24才、お江21才。婚儀は文禄元年(1593)2月のことであったが、翌月になって秀勝は唐入り(文禄の役)に出陣し、9月9日には朝鮮の巨済島で病没してしまう。わずか一月余りの短い新婚生活ながら、お江はすでに懐妊しており、一女子を生む(『幕府祚胤伝』)。のちに完子(さだこ)と呼ばれるこの娘は、お茶々の養女として九条幸家に嫁ぐこととなる。

文禄4年(1595)9月17日、お江は伏見城にて三度目の祝言をあげる。相手は徳川家康の三男秀忠。家康の正室であった秀吉の妹朝日姫が天正18年(1590)に亡くなっていたから、お江は豊臣家と徳川家との絆を結ぶという重責を担い、「太閤秀吉養女」(『徳川幕府家譜』)として輿入れしたのであった。このとき再々婚のお江は24才、秀忠は17才で初婚。6才年上の姉さん女房は、天下人の娘でもあったから、側室を持とうとしない秀忠には恐妻家という噂が流れる。ところが、そうした噂とはうらはらに、お江は2男5女に恵まれている。子宝に恵まれたお江に、ようやく平穏の日々が訪れたかのようにみえたが、歴史は繰り返す。7才になった長女千姫にお江と同じ運命が待ち受けていた。豊臣家と徳川家との政略により、秀吉と姉お茶々の間に生まれたいとこである秀頼のもとへ嫁ぐこととなる。そして、慶長20年(1615)、大坂陣によって秀頼は滅亡。淀殿(お茶々)は大坂城と運命を伴にし、千姫は落城の混乱のなかを助け出されている。戦国の世、武家の習としての諦めのなかにも、お江は姉や娘のことをたいそう心配したにちがいない。

元和偃武となって7年後の元和7年(1621)、お江は京都に養源院を再興している。淀殿が父長政の菩提寺として建立したものの、このときすでに火災等により荒れ果てていた。お江は父とともに姉の菩提をも弔おうとしたのかもしれない。

そして元和9年(1623)、お江が生んだ家光が3代将軍となり、また後水尾(ごみずのお)天皇の中宮となった和子(まさこ)が興子(おきこ)(のちの明正(めいしょう)天皇)を生んでいる。こうして平穏と栄華の日々が訪れるなか、お江は寛永3年(1626)9月15日、江戸城にて波乱に満ちた生涯を閉じた。享年54才。法名を崇源院という。

【メモ】
お江はお江与、小督と呼ばれた。徳子、達子(さとこ)は口に出して呼ぶことをはばかられた諱(いみな)であるから、いつもは、お江ないし、その異表記のお江与と呼ばれていたのだろう。小督についても『平家物語』や能の演目で知られた高倉天皇の女房小督局(こごうのつぼね)の例から見て「おごう」と読むのだろうが、あるいは諱の徳子に因んで「おとく」と読むのかもしれない。なお、達子の諱は死後に従1位の位階を追贈された際、朝廷から与えられたというから、お江本人は自分が達子であるとは知らなかったことになる。

(滋賀県教育委員会文化財保護課 北村圭弘)

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