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ガラシャ

関係図
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明智光秀の娘玉子

 細川ガラシャは明智光秀の三女である。ガラシャとは洗礼名であり、日本名を玉(正式には玉子)という。諸説あるが、諸書を突き合わせて検討すると、どうやら明智光秀には4人の娘と3人の息子がいたようだ。
玉子は永禄6年(1564)の生まれである。夫となる細川忠興も同年の生まれであり、二人は同い年ということになる。

信長と細川氏・明智氏

細川忠興は山城勝竜寺城主細川藤孝の嫡男である。藤孝は、足利将軍に仕える奉公衆であり、特に十三代将軍足利義輝が松永久秀等に暗殺されたときは、幽閉されていた一乗院覚慶(のちの足利義昭)を救出した。以後、義昭とともに近江六角氏・若狭武田氏・越前朝倉氏と援助してくれる戦国大名のもとを訪れ、義昭の将軍就任への協力を要請したが、彼らはその要請に応えることはなかった。そんな中、当時越前朝倉氏のもとにいた明智光秀とともに義昭と織田信長との対面を実現させ、ようやく将軍就任への協力者を得たのである。
藤孝と光秀との出会いはおそらくこの時が初めであったと思われるが、以後、二人は協力して義昭の将軍就任に力を尽くした。一方二人と信長との関係については、先に光秀が信長との間に主従関係を結んでいたようで、藤孝は光秀の斡旋により信長と義昭との対面を実現させている。義昭上洛後、信長との関係が良好な間は、藤孝も光秀も義昭と信長の両方に仕えていたようであるが、両者の関係が破綻すると二人とも義昭との関係を切り捨てて信長に従うようになった。義昭が京都を逐われた天正元年(1573)、藤孝は信長より京都桂川西地の一職を与えられている。これは藤孝を当地の地域支配を担う領主として認めたことを意味しており、それが信長から与えられたことは、藤孝が正式に信長に臣従したことを示している。藤孝が勝竜寺城を居城として整備したのはこの頃のことであろう。

細川忠興との結婚

玉子と細川忠興の結婚は天正6年(1578)のことといわれている。二人が結婚することになったのは織田信長の斡旋によるものである。『明智軍記』には、

日向守三番目ノ息女十六歳ニ成候ヲ、藤孝ノ長男与市郎忠興ニ嫁シ、弥タガヒニ入魂イタスベシト、上意ヲ申渡サレケレバ、両人トモニ此趣キヲ承ハリ、誠ニ有ガ(タ脱)キ仕合、言語ニ絶シ候

と記されている。忠興と玉子自体はそれまで深く関わりを持たず、恐らくは顔も見たことが無かったと思われるが、細川家と明智家自体はそれ以前から深く交わっていた。二人の父である細川藤孝と明智光秀は、ともに足利義昭に仕え、また信長と義昭との間を取り持った間柄である。また光秀は近江坂本城を、藤孝は山城勝竜寺城を居城とし、ともに協力して丹波・丹後の攻略にあたり、平定後は丹波を光秀が、丹後を藤孝が拝領するなど、織田政権のなかでもセットで扱われることが多い。

忠興もまた信長のもとで父藤孝とともに活躍する。天正5年(1577)の初陣から信長軍団の一翼を担い、主として畿内近国での戦闘に数多く参加している。信長文書の中で、唯一自筆であることが確認できる感状の宛所も当時与一郎と呼ばれていた忠興である。
結婚後、二人の間には嫡男忠隆をはじめとして三男三女が誕生している。信長の斡旋による政略結婚としてスタートした二人であったが、仲むつまじく暮らしていたようである。

本能寺の変

天正10年6月2日、未明の京都本能寺を明智光秀の軍勢が襲撃した。世に言う本能寺の変である。本能寺の変は玉子・忠興二人の夫婦生活を一変させた。丹後平定後、宮津城によっていた細川氏のもとにも信長を討った光秀からの誘いがあったが、藤孝・忠興父子はこの誘いを断っている。一方で丹波・丹後の諸領主の中には光秀に付くものもおり、細川氏は彼らと戦うことを余儀なくされた。

 

光秀の使者が現れたとき、忠興は憤激のあまり使者を殺そうとしたが父藤孝がそれを止めたという。忠興の正室として玉子の立場も非常に厳しいものとなったのはいうまでもない。主君信長を殺した謀反人明智光秀の娘という烙印を押されることになったのである。そのため忠興は玉子を丹波山中の味土野に幽閉する。『細川家記』には「御身の父光秀は、主君の敵なれば、同室叶ふへからす」という忠興の言葉を載せている。味土野は細川氏の領国ではないため、離縁という形をとって玉子を追放する土地としては適当だったのであろう。
 この時、玉子に数名の男女が従っているが、彼らは細川家への輿入れの際、明智家から玉子とともにやってきて細川家に仕えていた人たちであった。彼らもまた、玉子の離縁にともない細川家から追放されたことにして玉子の身辺の世話や警固にあたっていたと考えられる。後にその中の一人、一色宗右衛門がこの時の奉公の恩賞を細川家から賜っていることから見れば、細川家からの指示により世話や警固にあたっていたのであろう。

細川家としては形式上玉子を離縁してはいるものの、逆にそうすることによって玉子を守ったともいえる。幽閉にあたって人を付けていることや、後に復縁していることを見ても、建前上、そのままにしておかなかっただけで、決して本心から玉子を追放するものではなかったのであろう。

天正12年(1584)、玉子は秀吉から許されて忠興と復縁した。一応形式的には一度離別したことになっているので、再婚ということになる。幽閉されている間に忠興の側室に子どもが生まれるなどしたが、再婚後は玉子は正室の地位を回復し、三男忠利を産んでいる。

この頃の細川家は宮津城を居城としつつも、大坂城の城下町、玉造に屋敷を与えられ、両者を行き来していたようである。玉子もまた再婚後はこの両者を行き来していたのであろう。

キリスト教への入信

玉子に従って味土野に移ったものの中に「清原いと」という女性がいた。「いと」の実家清原家は儒者の家であったが、同時にキリシタンとも関わりが深く、「いと」の父枝賢はキリシタンに入信している。「いと」もまたそうした環境の中でキリシタンの教えに関する知識を得たものと思われ、「いと」自身も天正15年(1587)洗礼を受け、マリアと称するようになる。自らの厳しい境遇と対峙しつつ幽閉生活を送る中、玉子が「いと」との会話の中から徐々にキリシタンについての関心を深めていたことは想像に難くない。

そして玉子はついに思い切った行動に出る。

天正15年、九州征伐のため夫忠興が出陣している最中、玉子は教会を訪れるのである。その理由としては、本能寺の変以来の自らの運命の激変や幽閉生活の間に夫忠興が側室との間に子をなしたことなど、あらがいがたい運命の流れに翻弄される自身の境遇をなぐさめる教えをキリシタンに求めたことが考えられる。ともかく、教会を訪れた玉子はコスメ修道士の説教に耳を傾け、対話をした。その様子にコスメ修道士は、玉子の聡明さに驚いたという。

 

つづいて玉子は洗礼を受けたいとの希望を述べたが、この日は実現しなかった。屋敷に戻った玉子は後日、再び教会を訪れようとするが、周囲の者たちに止められる。当時玉子は夫忠興の厳しい監視下にあったのである。ルイス・フロイスの『日本史』はそのことについて次のように述べている。

身分の高い二人の家臣にそれぞれ一千クルザード近い収入を与え、昼夜不断に自邸で(妻の)監視を義務づけた。この両人は既婚者で、そこには妻や家族が(いっしょに)いたのであるが、(越中殿は)彼らに対して、自分が外出する時には、いかなる使者が家に入り、またはいかなる女たちが家から外出したか、そして誰が彼女らを出させたか、また(彼女らは)どこへ入ったかを観察し、その月日を記録して、書面によって自分に報告するように命じた。また、ごく親しい親戚か身内の者でない限り、彼女に対してはいかなる伝言をも許さぬように、そして(彼女に)伝えられることはまず彼ら(両人)の検閲と調査を受けるようにと命ぜられた。

フロイスはこうした厳しい監視を忠興の嫉妬心からと見ているが真偽の程は定かではない。いずれにせよ、外出が困難と考えた玉子は、「清原いと」に洗礼を受けさせ、彼女の手によって屋敷において洗礼を受けようと考えたのである。
フロイス『日本史』は語る。

当時(奥方が)外出するのには大いなる危険が伴ったので、司祭たちは(協議して)、(奥方の)側近者で親族でもあるマリアに、聖なる洗礼の授け方と言葉、ならびに(授洗者としての)役目に必要な条件や心構えを教えた上で、彼女の(手によって)自邸で(奥方に)洗礼を施すことにした。かくて(奥方は)よく準備を整え、(平素)彼女が身を隠している部屋の中の不断に祈りを捧げている(聖なる)肖像の前で、跪き、両手を挙げ、(侍女の)マリアから聖なる洗礼を受けた。そして彼女にはガラシアの(教)名が授けられた。

洗礼名のガラシャとは恩寵という意味である。
 洗礼を受けたことで玉子の内面は大きく変化を遂げた。それまでしばしば鬱状態におちいっていたものが落ち着きと明るさを取り戻し、まわりの者たちにも以前と比して優しく接するようになったという。また玉子は丹後に教会を建て、領民の改宗を進めようと計画する。周囲の者たちにも改宗を進め、その数は16名に達したという。
 また洗礼を受けた後、玉子は忠興との離婚を真剣に考えていたともいわれている。事の真偽は定かではないが、当時の大名家の一夫多妾制が、一夫一婦制を理想とするキリシタンの立場からは容認できなかったのかもしれない。とはいえ、結局両者は離婚にはいたっていない。

この頃キリシタンには厳しい時代となっていた。豊臣秀吉が天正15年6月19日、伴天連追放令を発布したのである。秀吉はそれまで、信長にならってキリシタンを容認していたが、多くの大名や領民がキリシタンに改宗している状況を見て考えを改めたのである。玉子の受洗は恐らくその以前のことと思われるが、細川家ではその事実を外部に対して秘密にしようとした。そのことも忠興と玉子の離婚が実現しなかった要因の一つだろう。

関ヶ原合戦と玉子の死

慶長3年(1598)8月18日、豊臣秀吉が伏見城でこの世を去った。時代はまた大きく変わろうとしている。秀吉の死後、早くも徳川家康が不穏な動きを見せ始め、石田三成らがそれを詰問するという、関ヶ原合戦につながる対立軸が形成されている。翌慶長4年(1599)の前田利家の死後はもはや対立を止めうる立場の人間がいなくなり、翌慶長5年(1600)の関ヶ原合戦へと進んでいくのである。
 細川忠興は、慶長4年閏3月、石田三成を襲撃しようとしたいわゆる七人衆の一人として名前が挙がっている。元来、忠興は三成とは不仲で、文禄4年(1595)に切腹させられた豊臣秀次への連座を三成に讒訴されたこともある。慶長4年には、前田利家の嫡男利長とともに不審な行動ありとして、三成が家康に讒言したため、疑いをはらすため家康に誓詞と人質を出すなどして逆に家康との関わりを強めている。家康はこの後忠興に新たな領地を与えており、たくみに忠興を自陣営に取り込んでいった。
そして慶長5年4月、徳川家康が会津の上杉景勝征伐に出発する。忠興も出陣し会津に向かった。周知のごとく、この会津征伐は関ヶ原合戦の直接の契機となる。家康の留守に三成が挙兵し、とって返した家康軍と関ヶ原で激突するのである。

 

会津征伐軍が下野小山に到着した時、伏見より書状が到来し、三成の挙兵が知らされた。家康は諸将を集め、三成挙兵を知らせた上で、諸将は人質を大坂に置いているだろうから心配なものは戻っても構わないと述べたという。それに対し、福島正則が真っ先に家康に従うことを述べ、他の諸将もそれに続き、大坂へ進軍することに決した。これが世に言う小山の評定である。忠興もまた諸将と動向をともにした。その忠興のもとに大坂から書状が届き、玉子が自害したことを知らせた。その知らせに忠興らは涙を流し、三成への復讐を誓ったという。
当時大坂には豊臣政権への人質として諸大名の妻子が城下の屋敷に住まわされていた。三成等は挙兵に先立ち、それら諸大名の妻子を大坂城へ人質として集めようとしていたのである。しかし玉子は人質となることを拒否して自害し、三成方は大坂城へ人質を集めることを止めたという。
 この時の様子について、玉子の側近くに仕えていた「しも(霜)」という侍女が、正保5年(1648)に忠興の孫光尚の問いに答えたものが覚書として伝わっている。その様子は次のようなものであった。

7月12日、玉子の側近くに仕える細川家家臣の小笠原少斎と河北石見が、石田三成が会津征伐軍参加の諸将から人質をとるらしいとの噂があるがどうしたものか、と尋ねるので「しも」がその旨玉子に伝えると、玉子は「忠興様と三成はかねて仲が悪く、人質を取るときは最初にここに来るだろう。最初でなければ他所の対応にならうこともできるが、最初にここに来たときはどう対処するかよく分別するよう両人に伝えなさい。」と答えた。それを受けて両人は、「もしそういったことがあれば、当家には人質に出すような人はいない(三男利光がすでに江戸に人質となっている)。それでも人質をといわれれば、丹後へ使いをやって幽斎様(忠興の父藤孝)に来ていただくか、あるいは他に何か指図があるまで待ってほしいと返答する。」と答え、玉子は「それでよい」と返答した。石田方は、日頃細川家に出入している「ちやうこん」という比丘尼を内々に屋敷に使わし、人質に来てもらえないかと再々申し入れたが、玉子は「忠興様のためには人質に行くことはできません」と答えた。すると、また「ちやうこん」より「宇喜多秀家殿は御一門(秀家室豪姫の妹が忠興嫡子忠隆の室)なので、宇喜多邸に入っていただければ世間的には人質になったと見なされましょう。」といってきたので、玉子は「宇喜多殿は御一門であるが、石田三成と一味であるように聞いているので同じ事だ。」といってやはり承知しなかった。
 7月16日には正式な使者が来て、玉子を人質に出せ、さもなくば無理矢理につれていくぞというので、少斎・石見は「あまり好き勝手な申しよう、この上は我等がともに切腹しても人質を出すわけにはいかない」と答え、屋敷の者たちも覚悟を決めた。玉子は、「もし本当に押し入ってきた場合は、自害するので少斎が奥へ来て介錯するように。」といい、長男忠隆の正室も人質には出さず、ともに自害することを内々に約束していた。
 少斎たちは相談して、敵が来たときは、稲富が表門でこれを防ぎ、その間に玉子が自害するという手はずを取り決めた。17日の夜、敵が門前に寄せてきたが、稲富が心変わりして敵方に寝返った。その様子を少斎が聞き、もはやこれまでと長刀を持ち、玉子の御座所に行って、「いよいよ御最期の時です。」といえば、内々に申し合わせていたことなので、忠隆の正室を呼び、一緒に自害しようとしたところ、すでにどこかへ脱出したのか姿はなく、玉子は落胆して自害して果てた。少斎が長刀で介錯をした。
 しもが門の所に出たころには屋敷に火がまわり、門外には大勢の人がいた。後で聞いたところではこの人々は敵ではなく、敵は稲富を連れて玉子が自害する前に引いていたということである。屋敷内で切腹した人たちは、小笠原少斎・河北石見・石見の甥六右衛門・その子一人。この人たちについては間違いないが、他に切腹した人が2、3人いたようだが、これについては定かではない。

忠隆の妻を道連れにしようとしたといったあたりは、他の記録ではこれを脱出させたという記述もあり、しもの覚書自体の信憑性に疑問はあるが、当時の様子を知るものの記憶として貴重な記録であろう。
玉子の辞世の和歌は「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」というものである。花も人も、散り時を知ってこその花であり人である、というこの歌は今こそ死に時であるという心境に達した玉子の心情を吐露したものであろう。その意味では玉子は自身の死を意味のある死ととらえていたのかもしれない。

(滋賀県教育委員会文化財保護課 松下 浩)

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