1. HOME
  2. 特集 近江の姫たち
  3. 冬姫

冬姫

関係図
  • 拡大して見る

冬姫は織田信長の次女である。生まれは、永禄4年(1561)となっているが定かではない。信長の次女というよりは、蒲生氏郷の正室としての方が有名で、そういう意味で近江との関わりが深い。

永禄11年(1568)、近江国日野城(中野城)主で六角氏家臣であった蒲生賢秀が、織田信長に従った際、信長は賢秀の長子である氏郷(鶴千代)を人質に出させた。そして、永禄12年(1569)、伊勢の戦いで功のあった氏郷は、信長からその才覚を認められ、次女の冬姫を与えられ娘婿に迎えられた。その後、氏郷は、元亀元年(1570)の朝倉攻めに始まり、天正元年(1573)の小谷城攻め、鯰江城の合戦、天正2年(1574)の伊勢長嶋城攻め、天正3年(1575)の長篠合戦、天正6年(1578)の摂津伊丹城攻め、天正9年(1581)の伊賀侵攻、天正10年(1582)の武田攻めと各地を歴戦する。その間もふたりの間柄は仲むつまじく、冬姫は日野城でずっと夫の帰りを待ちわびていたと考えられる。天正10年の本能寺の変の折には、父の蒲生賢秀は安土城の留守居をしていた。山崎片秀が安土城を焼き捨てて逃げようと進言するが、賢秀は信長が精魂掛けて建造した天下無双の大城郭を我々が焼いてしまうと末代までの恥になると、息子の氏郷に日野城から迎えに来させ自らの城へと退去する。そして、政権は羽柴秀吉へと移って行った。この冬姫達が暮らした日野城は日野川ダム沿いにあって、いまも堀切や土塁などの遺構を見ることが出来る。

さて、その後の蒲生氏であるが、天正11年(1583)に滝川一益を攻めて亀山城主となり近江の地を離れることになる。冬姫はこの年に蒲生秀行を生んでいる。天正12年(1584)、父の賢秀が死去すると、跡を継いだ氏郷は、小牧・長久手の戦いに参戦。さらに天正13年(1585)に紀州攻め、天正15年(1587)に九州攻め、天正18年(1590)に小田原征伐に参戦した。そして、その後の奥州仕置きでは、小田原での軍功によって会津42万石(のち92万石)を与えられ、故郷の森にちなんで黒川の地名を若松に改称し、若松城の築城とまちづくりに尽力した。この間、冬姫は後に前田利政の側室となる娘や、蒲生氏俊を生んでいる。

しかし、氏郷は文禄の役に参戦中の文禄4年(1593)に伏見で40歳の若さで急死する。一説には、秀吉もしくはその家臣石田三成による毒殺とも言われているが、定かではない。死因は氏郷を診断した医師曲直瀬玄朔の記録『医学天正記』によると膵臓か直腸の癌と考えられている。
氏郷の死に当たり、秀吉は美貌で知られた当時34歳の冬姫を自らの側室にしようとしたが、冬姫はこれを拒否した。氏郷の死後、跡を継いだ秀行であったが、慶長3年(1598)、秀吉の感情や重臣達の内紛を利用した石田三成の謀略により、蒲生氏の勢力を衰退させる目的で宇都宮城12万石に減封して移封される。おそらく、この時に冬姫も宇都宮城に移ったと考えられる。こうしたこともあって、蒲生氏は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、東軍にたって軍功を挙げ、戦後に60万石で会津城主として復帰した。

しかし、息子の秀行も慶長17年(1612)に30歳の若さで死去する。その後を蒲生忠郷が継いだが、忠郷もまたもや寛永4年(1627)に25歳という若さで死去する。忠郷には子がなかったため、お家断絶と決められたが、冬姫が信長の娘であることや、秀行の妻が徳川家康の娘・振姫であったことなどから、冬姫の孫、忠郷の弟の蒲生忠知が跡を継ぎ、伊予松山城20万石へ減封されながらも蒲生家は生き延びた。信長の娘として血が蒲生氏を救ったといっても過言ではないであろう。
冬姫は長生きをし、寛永18年(1641)に81歳で亡くなった。墓は京都の知恩寺にある。

(滋賀県教育委員会文化財保護課 木戸雅寿)

  • 日野城跡(中野城跡)遠景日野城跡(中野城跡)遠景
  • 蒲生氏郷像(日野町 ひばり野公園)蒲生氏郷像(日野町 ひばり野公園)