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本多栄子

関係図
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家康の臣従と栄子の輿入れ

徳川四天王の一人、「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」とうたわれた徳川家きっての武闘派である本多忠勝の妹栄子が豊臣秀吉直参の官僚であった長束正家に嫁いだのは天正14年(1586)のこと。

徳川家康が豊臣秀吉と覇権を争った天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの後、家康に与した佐々成政や長宗我部元親らが秀吉に討伐され、家康自身は孤立の度合いを深めていった。更に、家中では酒井忠次・本多忠勝ら反秀吉の強硬派と石川数正ら秀吉支持の穏健派が対立し、分裂の危機にあった。天正14年、秀吉は実妹・朝日姫を正室として家康に差し出し、生母・大政所までも人質として岡崎城に送ってくるなどして家康に臣従を求めた。10月27日、ついに家康は大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明した。

長束正家は、初め丹羽長秀に仕えたが、天正13年(1585)に豊臣秀吉の奉公衆に抜擢され、後に豊臣氏直参の家臣となった。高い算術能力を買われて財政を一手に担い、豊臣氏の蔵入地の管理や太閤検地の実務を担った。天正14年の九州の役では兵站を担い、大いにその力量を発揮していた。
武人としての印象はいささか薄いようであるが、天正12年の小牧・長久手の戦いでの活躍などにおいては、豊臣秀吉からも東国一の勇士と賞賛されている。『甫庵太閤記』に五奉行評があり、長束正家は丹羽長秀に仕えて名判官だったから選ばれたと記されている。その実務能力の高さが故に、武人としての姿がかすんでしまったのであろう。ともあれ、正家は豊臣政権にとって石田三成とならび不可欠の存在であった。

天正14年に、徳川家中にあって反秀吉の旗頭であった忠勝の妹が秀吉直参の家臣である正家に嫁ぐということは、家康臣従の証でもあったのは間違いない。豊臣・徳川の平穏な関係を示すが如く、同17年には長男・半右衛門助信が誕生している。

正家敗走

文禄4年(1595年)、近江水口5万石を拝領し五奉行に名を連ねた正家は、間違いなく豊臣政権の中枢を担っていた。
正家は秀吉没後一貫して石田三成方に与し、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦を迎える。豊臣への臣従の証として輿入れした栄子の立場はいかがなものであったのだろうか。
弟直吉に水口岡山城の守備を任せて西軍本隊の根拠地であった大垣城へと向かった。関ヶ原の戦いでは毛利秀元・吉川広家とともに南宮山に布陣し合戦前には池田輝政隊と銃撃戦を展開したが、広家の妨害のため、本戦に参加できず、西軍が壊滅すると敗走した。このとき水口城を目前に山岡道阿弥率いる軍勢の攻撃を受けて弟玄春が討たれたものの、からくも入城に成功する。しかし、寄せ手の亀井茲矩・池田長吉に欺かれて城から誘い出され、日野において弟直吉と共に家臣奥村左馬助の介錯で切腹した。39歳であったという。
地元古城山の阿迦之宮に霊が祀られる。

栄子の逃避と出産

さて、正家と栄子との間には、半右衛門助信、長吉、祐順らのほか、還誉岌閑がいる。慶長5年当時幼少であった子ども達は、水口城から出され細川家など縁故の家に預けられていた。徳川家きっての武闘派本多忠勝の妹である栄子は、どこにいたのだろうか。明らかに両家は敵対していることから実家に送り届けられるべきであったのだろうが、水口岡山城に留まっていた。栄子は人質として留め置かれたのではなく、臨月を迎えていた故に留まっていたのである。
身重だった栄子は、落城に際して水口北脇の長束家臣山本浅右衛門の家に匿われ、ここで男子を出産したが、産後の肥立ちが悪くまもなく亡くなった。その後、遺児は仏道に入り、長じて寛永2年(1625)水口大徳寺の三世還誉上人となった。還誉上人は亡き母栄子の菩提を弔うために北脇の地にあった地蔵堂を改築し、栄照寺と号し、大徳寺の末寺とし長束家の香華院とした。徳川家光と親交があつく、家光はたびたび大徳寺を訪れ親筆を残した他、多数の下賜品を寺に賜っている。
戦国時代末期にあって、豊臣と徳川をとりもつ縁組みであった正家と栄子の婚儀は、うわべだけのものではなく、天下分け目の戦の最中にあっても、極めて稀なことに二人の絆は強く結ばれていたのである。栄子の人となりを伝えるものはないが、戦国の世にあって信じる人を伴侶として生きた女性の姿を垣間見ることができる。
なお、現在地に立つ栄子を供養する「姫塚」は明治26年、一族の花輪氏が建立したものである。

(滋賀県教育委員会文化財保護課 畑中英二)

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