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千代と法秀尼

千代
千代 関係図
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山内一豊(やまうち かつとよ)は、浅井新八郎、前野長康、牧村政倫、山岡景隆、織田信長、豊臣秀吉、秀次、秀頼、徳川家康と数多くの戦国武将に仕えた。長浜城で国持ち大名となり、その後、関ヶ原合戦での軍功により土佐国20万石を与えられ、土佐支配に当たった。

一豊は、天文14年(1545)7月、但馬守盛豊の三男として尾張国で生まれた。父は岩倉織田氏の重臣で、母は尾張の土豪梶原氏の娘法秀尼である。岩倉城は、織田信長に攻められ永禄2年(1559)に落城。家老の盛豊は城と運命を共にして自刃。一豊と母と弟と妹は城から脱出した。流浪の果て、近江国勢多城主の山岡景隆の近習として仕えたことをきっかけに、永禄3年(1560)に米原市宇賀野の長野家に落ち着いた。 一豊の母の実名は不明で、盛豊が戦死したのち出家して法秀尼(法秀院)と名を改めた。ここで、手習いを教えていたが、その中に後に一豊の妻となる千代(まつ)がいたと云われている。苦労の内に一豊を育てた母は、一豊が長浜城主となった翌年の天正14年(1586)7月、この地でこの世を去った。今も宇賀野に墓があり、長野家には「法秀院縁月妙因大姉」の賛がある軸が残されている。また、長野家には、一豊の遺品として、鏡や轡、「長野家文書」(長浜城歴史博物館 保管)が遺されている。

千代は、浅井氏家臣若宮友興の娘(『寛政重修諸家譜』)、または遠藤盛数の娘(『慈恩寺蔵美濃郡上八幡城主遠藤氏系図』)といわれている。また、名の「千代」・「まつ」とも他人との誤認という説もある。
弘治3年(1557)に生まれたことはわかっているが、詳しい人物像については不明な点が多い。千代といえば「内助の功」、良妻賢母として有名である。鏡の裏にヘソ繰りとして隠していた嫁入り持参金で、一豊が欲しがっていた馬「鏡栗毛」を購入し、一豊はその馬にまたがって信長の馬揃えに出役したので、信長にほめられたという話はよく知られている(『常山紀談』)。また、まな板の代わりに枡を裏返して使った倹約話などのエピソードも有名である。まさに司馬遼太郎の『功名が辻』である。
しかし、これらの話は江戸時代中期に新井白石が『藩翰譜』や室鳩巣の『鳩巣小説』から得たもので真偽のほどについては詳らかではない。一豊との間には与祢と名付けられた娘がいたが、天正大地震により倒壊した天守の下敷きとなり亡くしてしまう。以後、子が生まれることもなく過ごした。
後に、一豊の弟康豊の嫡男山内忠義を養子とし2代目とした。慶長10年(1605)に一豊が亡くなると土佐を引き払い、剃髪して見性院と号し、京都の妙心寺近くに住んでそこで余生を過ごした。晩年は、和歌に親しみ過ごしたといわれている。元和3年(1617)12月、享年60歳で没する。その歳は一豊と同じ年齢であったという。

(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 木戸雅寿)

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