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茶々

茶々

伝淀殿画像(奈良県立美術館蔵)

大仏の功徳もあれや槍刀 釘鎹は子宝恵む 笹絶えて茶々生いしげる内野原 今日は傾城香を競いける (武功夜話)

関係図
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天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦後、母お市にも先立たれた浅井三姉妹は孤児となり、父母の仇ともいえる秀吉の手元におかれることとなった。そして翌12年にお江、15年にお初と、若年の妹が相次いで嫁いでいくなか、長女の茶々のみが秀吉にもとに残された。そして、天正16年(1588)末頃に懐妊することとなる。秀吉52才、お茶々20才のときである。茶々のこの懐妊は当初から驚きと疑念をもって迎えられたらしく、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは「多くの者は、もとより彼には子種がなく、子供を作る体質を欠いているから、その息子は彼の子ではない、と密かに信じていた」と書き残している(日本史)。

そして、冒頭に掲げた落首が聚楽第の表門に貼り出されるという事件が起きた。最初の句は、方広寺大仏の建立を名目に進められらた刀狩りを批判し、秀吉に子ができたことを大仏の功徳と嘲笑する。次の句は、肥後の統治に失敗した佐々成政が切腹させられ、内野原にある聚楽第では、懐妊した茶々ばかりの勢いがよいと批判したうえで、傾城(遊女)は国を傾けるとして、武士の悪所への出入りを禁止したにもかかわらず、今日の京(聚楽第)では傾城(茶々をはじめとする秀吉の女性たち)が色香を競っていると、秀吉や茶々を中傷する。茶々は周囲からも冷たい視線を浴びせられ、いたたまれない思いだったろう。

そうしたなか、秀吉は天正17年の1月早々、淀城の大改修をはじめる。茶々は一般的には秀吉の側室といわれるが、同時代史料は茶々をそのようには呼んでいない。実のところ「正室以外の女性=側室」とする通念は江戸時代に成立したらしい。すなわち、慶長20年(1615)発令の武家諸法度において「私に婚姻を締ぶべからざる事」と定められ、将軍から婚姻を許された女性ただ一人が正室となった(一夫一妻制)。その一方、世嗣を得るために複数の妾をおくことが公認され(多妾制)、彼女たちは正室が住む御殿に一室(部屋)を与えられて側室と呼ばれるようになったという。武家諸法度以前の一夫一妻制ではない時代、秀吉は本格的な城郭を造営して、これをお茶々に与えることで、彼女を妻として処遇することを宣言したと言えるのかもしれない。いずれにせよ天正17年5月27日、茶々はこの城で鶴松を生み、「淀之上様」などと呼ばれることとなる。

しかし、幸福な時は長くはつづかなかった。鶴松はわずか2才余で夭折する。悲嘆に暮れる秀吉はさらなる実子の誕生をあきらめ、天正19年の暮れに甥の秀次に関白職を譲り、自らは太閤と称した。そして、唐入りのために肥前名護屋城に茶々を伴って在陣することになる。そうしたなか、茶々がまた懐妊する。秀吉57才、茶々25才のときである。そして、文禄2年(1593)8月3日、大坂城二ノ丸で秀頼を生む。このとき秀吉は、秀次に関白職を譲ったことを大いに悔やみつつ、いったんは秀頼と秀次の娘との婚約を進めたものの、2年も経たない文禄4年、秀次に切腹を命じ、その妻子侍女ら30余名も処刑した。一説によれば、秀頼の婚約者とされた娘は当時7才であったという。秀頼を産んだことが原因で、こうした悲劇がおこったから、茶々は大きな衝撃を受けるとともに、あらぬ噂を立てられたかもしれない。心痛はいかばかりとも、はかりしれない。

「秀頼のこと、成り立ち候ように」「何事も、このほかには思い残すことなく候」「返す返す秀頼の事、頼み申し候」「名残り惜しく候」。慶長3年(1598)8月18日、秀吉は幼い秀頼の行末をたいそう案じながら、徳川家康ら五大老あてに遺言を残し、62才で没する。茶々30才、秀頼はわずか6才であった。ところが、それからわずか2年後の慶長5年(1600)に関ヶ原合戦がおこる。名目上は豊臣家臣団内部の争いではあったが、勝者家康は慶長8年(1603)に征夷大将軍に任官し、同10年(1605)には秀忠に将軍職を譲る。このことにより、天下はもはや秀頼のもとには戻らないことが明確となり、秀頼と茶々は老獪な家康に次第に追い詰められていく。そして慶長20年(1615)5月8日、大坂陣により大坂城は落城。茶々は秀頼とともに自害して果てた。秀頼23才、茶々は享年47才とも49才ともいわれる。

「豊臣秀吉は秀吉公の実子にあらず、と密かにいへる者もありしとぞ。」「淀殿、大野修理と密通し、拾と秀頼君を生ませ給うと也。秀吉公死後は淀殿いよいよ荒淫になられし事も、邪智淫乱かつ容貌美なれば也。名古屋山三郎が美男なるに、淀殿思いを懸け、不義の事有りける也。大坂の亡びしは、偏に淀殿不正より起りし也。」 元禄年間(1688-1704)頃に、幕臣真田増誉が編んだ逸話集『明良洪範』は、茶々についてこのように記している。江戸時代に形成された一夫一妻多妾制の通念に照らして「茶々=側室=妾」という図式がつくられ、「邪智淫乱かつ容貌美」という「淀殿」「淀君」像が形成された。そして、そうしたイメージのなかで、秀吉時代からあったうわさ話が真実味をもって語られるようになる。茶々は豊臣家を滅ぼした悪女。徳川の天下を正当化するための宣伝は大いに功を奏し、多くの人々がこれを信じるようになった。

(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 北村圭弘)

  • 秀頼が寄進した竹生島観音堂秀頼が寄進した竹生島観音堂
  • 茶々が寄進した石山寺本堂平安時代に創建され、茶々が修築した石山寺本堂