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阿子(小野殿)

関係図
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阿子についての史料の初見は『徳勝寺受戒帳』である。天文15年(1546)2月24日の徳昌寺での受戒者中に「阿子御料 新井新九殿之御内」と見えている。「新井新九殿」とは浅井新九郎久政のことであり、阿子は久政の「御内」、すなわち妻であったことが知られる。そして、浅井長政の長女淀殿(茶々)が「浅井野州御内儀小の様」の菩提を弔っていること(『近江国浅井殿御一門御過去帳』)を考慮すると、阿子こそ小野殿であり、久政の正室として長政を産んだことがうかがわれる。茶々は阿子を孫(浅井氏嫡女)としての立場で弔ったのであろう。

 阿子の事績はほとんど伝わらないが、長政が天文14年(1545)生まれ、京極マリア(京極高吉室)も彼女の娘で長政の姉とされるから、天文10年(1541)頃には久政のもとに嫁いでいたとみられる。当時の女性の一般的な結婚年齢をかぞえ歳の15才前後と仮定すると、阿子は大永7年(1527)頃の生まれとなる。父は井口越前守経元。井口氏は伊香郡井口村(滋賀県長浜市高月町井口)の有力豪族で、その苗字が示すごとく鎌倉時代以来、「高時川預かり」として高時川の水利権を支配する立場にあった。阿子が久政に嫁いだ背景として、実はここに大きな政治力学が働いていた。

すなわち、浅井氏は本来、浅井郡丁野郷(長浜市小谷丁野町ほか)の土豪に出自し、その本拠である小谷城西側一帯の水田は餅ノ井によって灌漑されていた。当初、この餅ノ井堰は高時川井明神橋付近で取水する井堰群(大井堰など)の最下流に位置したため、常に水不足に苦しみ、少しの期間でも雨が降らないと、たちまちのうちに干ばつに見舞われる状況にあった。そこで久政は、伊香郡の村々を潤す大井堰などを懸け越し、餅ノ井堰を井堰群の最上流に移す一方(懸越し)、極端な渇水時には、懸け越された側の大井かかりの村々等に餅ノ井堰を切り落とす権利を与えた(井落とし)。餅ノ井の懸越しと井落としがそれである。久政はこのことによって地域の平和と秩序の破綻をまねく水戦争の勃発をぎりぎりのところで押しとどめることに成功することとなった。事実、この水利慣行は昭和初期までの約400年間にわたって地域の人々に守られ、水利紛争の解決法として機能してきたのである。

さて、上述のとおり、阿子の実家は井口氏である。井口氏は伊香郡側井堰群の代表・大井の井頭である井口村にあって、「高時川預かり」として高時川の水利権を支配する立場にあった。久政は阿子をめとることによって、浅井氏の主導のもとに浅井郡と伊香郡を代表する政治勢力の連合を成立させ、このことを大きな梃子として地域の平和と秩序を維持する公権力として地域社会に認知されることになったと見られる。浅井氏が三盛亀甲花菱紋とともに、井口氏に由来するらしい井桁紋を家紋として使いつづけた背景には、実は浅井氏が戦国大名へと成長する大きな一歩がここにあったことを示唆するのだろう。阿子が北近江の戦国史に果たした役割はあまりにも大きい。

ところが、こうした勲功多大の阿子も最後のときはあまりにも凄惨であった。『近江国浅井殿御一門御過去帳』によれば、阿子は「天正元暦九月十九日」に亡くなっている。浅井長政の自刃と小谷落城は天正元年(1573)9月1日のことであるから、息子に先立たれたうえ18日間は生きながらえていたことになるが、自らの死を迎えるまでがまさに生き地獄であった。『島記録』は「久政公御内儀ハ、井口弾正少弼女也。信長公、十指数日切リ生害ノ由」と伝えている。この伝聞を信じるならば、阿子は小谷落城後に織田信長の捕虜になり、9月9日頃から手の指を毎日切り落とされて、9月19日に至ってついに絶命したことになる。かぞえ歳47才の生涯であった。戒名は妙仏禅定尼。孫の茶々が秀吉の寵愛を受けて捨(鶴松、夭折)、拾(秀頼)の二子を生み「大坂二ノ丸様」として、その菩提を弔ったことがせめてもの救いであろうか。

(滋賀県教育委員会 文化財保護課 北村圭弘)

  • 井口氏屋敷跡に建つ碑井口氏屋敷跡に建つ碑
  • 理覚院井口氏の菩提寺(理覚院)