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  2. 特集 近江の姫たち

倫

倫

明智光秀が寄進したとされる西教寺総門

関係図
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最初の夫 荒木村次

明智光秀には三男四女があったとされるが、その長女が倫である。もちろん本当に倫という名前だったかどうかは定かではない。

『明智軍記』(元禄15〈1702〉年刊。明智光秀の事蹟を記した軍記物語)によれば、
「嫡女ハ、永禄十二年ノ冬、十六歳ノ時、明智左馬助光春に妻アハセリ。」
と記されている。ただし、光秀の長女は、はじめ荒木村重の嫡男新五郎村次に嫁いでおり、左馬助には再嫁したことになる。村重は、摂津有岡城を居城とする武将で、信長に仕え、その信任も厚く、摂津一国の支配を任されるほどであった。しかし天正6年(1578)、突如として信長を裏切り、それまで敵対していた毛利氏と結んだ。この時光秀は、糾問の使者として松井友閑らとともに村重のもとを訪れている。その後荒木勢は一年あまり有岡城に籠城するが、隙を見て村重は城を脱出、妻子・家臣を捨てて毛利に走った。信長はそのあさましさに怒り、人質となっていた村重と家臣の妻子らを悉く処刑した。後に、倫が左馬助に嫁いでいることから、村重が反旗を翻して早々に、村次と離縁したものと考えられる。

明智左馬助という人物

この後、倫が再婚した明智左馬助とはいかなる人物であろうか。『細川家記』(天明2〈1782〉年成立。肥後熊本藩主細川氏の家史)には
「一書ニ、光春は元濃州ノ産、塗師の子也、幼少の時容顔勝れ候故、光秀の籠童と成、三宅弥平次と云、才勇尋常にこへ候得は、後に聟とせられ、明智左馬助光春と号し、一の老臣として、福知山の城主と成、忠興君の御咄に、光春は、実は塗師の中にても、五器塗師の子なれ共、希代の者なりしと被仰候也と云々、」
と記されている。幼少の頃はその容貌ゆえに光秀の寵童となり、長じては才覚と勇猛さから第一の重臣となり、福知山城主にまでなったという。出自については塗師の子とあり、武家の出ではなかったと記されている。

左馬助がいかに光秀に信頼されていたかは、本能寺の変の際、謀議に加わった人物として『信長公記』(慶長15年〈1610〉頃成立。信長の家臣太田牛一が記した信長の伝記)をはじめとする諸書に共通して見られる名前が明智左馬助、斎藤内蔵助、藤田伝五、溝尾庄兵衛であることからも想像できる。中でも左馬助は常に先頭に名前が書かれており、光秀家中の重臣の中でも筆頭格の地位にあったことがうかがえる。ちなみに斎藤内蔵助とは斎藤利三のことで、彼の娘が後の春日局である。

明智左馬助とは誰か?

ところでこの明智左馬助の実名については光春とするもの、秀俊とするものがある。

先に紹介した『細川家記』をはじめ、『川角太閤記』(元和7〈1621〉頃成立。豊臣秀吉の事蹟を記したもの)『明智軍記』には光春と書かれている。『明智軍記』では、明智左馬助光春が安土城の留守を預かっていたが、山崎合戦での明智光秀の敗報を受け、
「偖安土ノ城ヲ其儘捨置ン事無念ナル次第ナリトテ、天守ヲ始メ諸殿・門・櫓ニ至迄、悉ク火ヲ放テ一時ノ灰燼トナシツヽ、同十四日辰ノ刻ニ、坂本ヲ指テ参陣シケル処ニ、大津打出ノ浜ニテ、敵勢ノ先掛堀久太郎秀政ガ千四五百騎ノ兵ニ覿面ニ行逢シカバ、互ニ名乗掛、散々ニ挑戦フ。」
と、安土城を焼いて坂本に向かい、途中大津で敵勢の堀秀政軍と戦ったことが記されている。『川角太閤記』も同様であるが、こちらには堀秀政と対陣した際、湖水を渡って坂本へ向かった話しが書かれている。

一方秀俊とするのは『常山紀談』(元文4年〈1739〉成立。戦国・近世初期の武将に関する逸話集)である。「明智秀俊湖水を渡して坂本城に入る事」の項に、
「光秀信長を弑して安土の城を攻おとし、左馬助秀俊に守らせて山嵜に打向ひ、秀吉と戦ひて敗北せり。秀俊安土を出て、光秀を救んと京をさしてすゝむ処に、はや光秀討れたりと聞えしかば、坂本の城に入んと、粟津を北へ大津をさして行く所に、秀吉の先陣堀久太郎秀政に行あひけり。秀俊小勢なればうち破られぬ。本道は敵にふさがれつ、湖水に馬をうち入れおよがせければ、秀吉の軍兵ども汀に並居て、溺れん有さまを見よ、と笑ひあへり。」
と、左馬助秀俊が安土城の留守を預かっていたが、光秀の敗報を聞いて坂本城に向かう途中、堀秀政の軍勢と交戦し、湖水を馬で渡ったことが書かれている。秀俊とするのは『常山紀談』のみであり、他の諸書に左馬助光春とあることからすれば、左馬助=光春とするのが適当と考えられる。

対して『惟任退治記』(天正10年〈1582〉成立。本能寺の変から明智光秀の死までを記した軍記物語。豊臣秀吉の活躍を記した軍記物語『天正記』を構成する一篇)では、明智弥平次光遠なる人物が安土城の留守を預かっていたが、
「安土山ニハ明智弥平次在城、惟任敗軍の趣を聞き届け、彼の金銀を鏤める宮殿楼閣、一度これを焼き払い、秦皇造る所の阿房殿・咸陽宮、楚人一炬焦土と成す。今もってこれに同じ。弥平次一千余騎を延べ、惟任に馳せ加わらんと欲し、打ち上り、大津において堀久太郎と行き合う。すなわち追い立てられ、三百計これを討つ。弥平次小舟に取り乗り、坂本城に楯籠もる。」
と、光秀の敗報を受けてやはり安土城を焼き、坂本城へ向かう途中堀秀政と交戦、小舟に乗って坂本城に渡ったと記されている。

これらの記述を比べれば、明智左馬助光春と明智弥平次光遠は、同じ行動を取っており、この二人が同一人物であることは間違いない。ここで『細川家記』の記述に戻れば、明智左馬助はもと三宅弥平次と名乗っていたとされており、『惟任退治記』の記述は、左馬助の旧名が混同されたものと考えることもできよう。『信長公記』をはじめ、多くの資料で明智左馬助なる人物が登場することからすれば、本能寺の変の後安土城の留守を預かっていた人物は明智左馬助光春とするのが適当であろう。

明智弥平次秀満

しかし、実は明智左馬助光春という人物が登場する資料はすべて後世の編纂物ばかりであり、同時代資料にその名は見られない。そのかわり同時代資料に登場するのが明智弥平次秀満である。天正9年(1581)10月16日付で明智秀満が天寧寺(京都府福知山市)の諸色免許を認めた文書が存在する。現在確認されている唯一の秀満発給文書であるが、同時代資料にはっきりと名前が現れていることからすれば明智弥平次秀満という人物が実在すると考えてよいだろう。

他に、堺の茶人津田宗及が催した茶会の記録集である『天王寺屋会記』にも弥平次の名が登場する。天正8年(1580)9月21日の茶会に三宅弥平次が惟日=惟任日向守=明智光秀や斎蔵=斎藤内蔵助利三とともに参加している。三宅弥平次とは『細川家記』で明智左馬助の前名とされていた名前である。翌天正9年4月10日には、「福地山にて明知弥平次殿之振舞」と記され、明智弥平次が福知山城において亭主として宗及をもてなす茶会を開催したことが書かれている。丹波平定後、明智光秀は秀満を福知山城代としたとされているが、先にあげた秀満判物やこの茶会の記録からもそうしたことが裏付けられよう。さらには本能寺の変の後、天正10年(1582)6月29日に、弥平次の父親が福知山城で生け捕りにされ、翌7月2日に京都粟田口で磔にされたことが『兼見卿記』に記されている。父親を福知山城の留守居として出陣し、本能寺の変を迎えたのであろう。

同時代資料から分かる明智弥平次秀満の来歴については、もと三宅弥平次と名乗っていたものが後に明智弥平次と苗字が変わっていること、福知山城を預かり、地域支配を任されていたことだけである。本能寺の変の後安土城の留守居を務めたかどうかは、同時代資料には留守居の名前が記されておらず確認できない。ただ、これらの事実は『細川家記』に記された明智左馬助光春の来歴と重なることから、明智光春=明智秀満としてよいと考えられる。すなわち本能寺の変の後安土城の留守居を務めたのは明智秀満として間違いない。

ここまでの記述を総合すると、明智左馬助=明智弥平次であり、弥平次の実名は秀満としてよいであろう。弥平次光遠は軍記物語にしか登場しない人物であり、おそらくは実名が誤って書かれたものと考えられる。左馬助光春と弥平次秀満が同一人物であるとして、果たして秀満は左馬助光春と名乗りを変えたのだろうか。同時代資料に左馬助光春という名が見られない以上変えたとする確証はない。また本能寺の変以降も同時代資料に登場するときは弥平次と書かれており、左馬助光春という名は後世創作されたものとするのが適当であろう。

本能寺の変と倫

三宅弥平次が明智弥平次と苗字を変えたきっかけとしては『細川家記』の記述どおり、明智光秀の娘倫との結婚としてよいだろう。結婚の時期としては、茶会記の記述から天正8年から9年の間ということになる。そして倫は秀満とともに福知山城に暮らしたものと考えられる。

本能寺の変を倫はどこで迎えたのであろうか。残念ながらそのことについて触れた資料は存在しない。常識的に考えれば福知山城と見てよかろう。秀満は父を留守居とし、家族を城に残して出陣したと考えるのが普通である。その後秀満は、光秀とともに本能寺の変を起こし、安土城の留守居となり、光秀が羽柴秀吉に敗れたと聞くと安土城を焼き、坂本城へ向かう。途中大津で堀秀政の軍勢と出会い、これと戦い、湖を渡って坂本城へとたどり着く。そこで光秀の妻子とともに自害したというのが諸書に共通した内容である。

一方倫の消息については全く分からない。秀満の父が福知山城で捕らえられたことからすれば、同様に捕らえられた可能性もある。としても処刑されたとする資料はなく、またこの時、福知山城ではそれほど激しい戦闘は無かったと思われるので、城で死んだとも考えられない。あるいは城を抜け出して落ち延びたかもしれない。ただいずれにせよ、同じ立場の玉(ガラシャ)や、斎藤利三の娘(のちの春日局)を見れば、やはり謀反人の娘として過酷な人生を送ったであろうことは想像に難くない。

(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 松下浩)

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