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熙子

熙子

西教寺熙子墓

関係図
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熙子の実像

明智光秀の前半生は謎に包まれている。美濃土岐氏の一族とはいうがもちろん確証はない。足利義昭と織田信長とを結びつけ、信長家臣として大活躍し、破格の出世を遂げ、やがて本能寺の変で信長を滅ぼし、一旦は天下を握る。しかし、直後に羽柴秀吉との決戦に敗れ、落ち武者狩りの手にかかって命を落とす。世に言う「三日天下」である。信長に仕えて以後の足跡は、様々な資料でたどることができるが、それ以前のことについては後につくられた軍記物語などにしか記されておらず、同時代文献に名前を見いだすことはできない。

光秀の妻熙子(この名前も明らかではない)についても同様である。そもそも資料によって子どもの数まで違う。また没年についても確かなことは不明である。本能寺の変の後、羽柴秀吉との決戦に敗れた光秀は落ち延びる途中落ち武者狩りの手にかかって命を落とすが、その知らせを聞いた坂本城の熙子は、家臣たちを城から出し、自身は攻め寄せる羽柴勢を前に城に火を放って自害したと『明智軍記』には記されている。しかし、光秀・熙子夫妻の墓がある坂本の西教寺では熙子の没年を天正4年(1576)と伝えている。確かな資料がほとんどないことから、様々な伝承が伝わっているのは仕方のないことではある。これから紹介する話も、そうした後世の編纂資料に記載されているものばかりで、信憑性は決して高くない。しかし、資料がつくられた時代の光秀に対するイメージをうかがうことはできよう。主君信長を裏切り、そのまま天下を握り続けることなく滅び去ったため、光秀についてはよくないイメージがついてまわっている。しかしそうしたイメージもまた後世に作り上げられたものなのである。そうしたイメージを相対化し、光秀が実際にどういった人物だったのかを考えるためにも、光秀とその妻についての逸話をいくつか紹介したい。

描かれた熙子

井原西鶴の記した「武家義理物語」(『新編日本古典文学全集69 井原西鶴集④』小学館 2000年)に明智光秀とその妻に関する逸話が記されている。「武家義理物語」とは文字通り、我が身を犠牲にしても義理を立てようとする武士の逸話をまとめたものである。

明智光秀は主君に仕え、よく奉公したので弓大将にまで出世した。しかも国持大名にまでなろうという大志を抱いてた。この光秀がいまだ独身だったので娘を持つものは婿にしたいとして申し入れてきたが、すでに光秀には11歳の頃より言い交わした相手がいた。その娘は近江佐和山にすむ美人姉妹の姉娘で、光秀が出世し、身分が安定してから後嫁に迎える約束であった。

その後7年余が過ぎ、その娘を呼び寄せようと連絡したところ、その姉妹がともに疱瘡にかかってしまい、美人だった姉娘は疱瘡の跡が残ってしまった。姉妹の両親は、光秀と約束していた姉娘が昔とは異なる容貌になってしまったので、そのまま姉を光秀のもとに行かせるのは恥をかかせることだと思い、まだ嫁入り先のきまっていなかった妹娘の方を光秀に送ることとした。そのことを姉娘にいうと、姉娘もまた「このような容貌となって光秀に会うことはできないし、他の男を待つ気にもなれない。妹は美しく、賢いので光秀のところにやっても何の問題もない。自分はこのまま出家する。」といって愛用の鏡を砕き、浮き世を捨てる誓いを立てた。両親が妹娘にそのことを告げると、妹娘は姉より先に嫁ぐことを躊躇したが、両親から姉娘が出家するつもりであること、嫁ぎ先の光秀が出世を見込める将来有望な侍であることを聞き、嫁入りを決意する。

さて婚礼の席で光秀は、娘の顔をよくみてみると昔あったほくろが無いことに気づいた。大人になって消えてしまったのかと思っていると、そのことに気づいた妹娘は、「実は姉が疱瘡で容貌が変わり果ててしまったので、両親の言いつけに従い、こうしてやってきましたが、よくよく思い返してみると、あなたが婚礼の約束をしたのは私の姉上です。こんなことは道にはずれたことですが、どうかお許しください。私はこれより出家します。」といって守り刀を抜き、髪を切ろうとした。光秀はそれを止め、「そなたが出家したとしてもそれで世間が済むものではない。人知れずに済ませる思案が自分にはあるので、五日目の里帰りまで待ちなさい。それにしても武士の娘のあっぱれな心がけだ。」と深く感じ入り、その後は二度と顔を合わせることなく、里帰りのとき手紙を持たせた。そこには「私がもらったのは姉の方で、難病は世の中にはよくあることです。たとえ昔の美しさは失われたとしても私のもとに寄越してください。命に懸けて夫婦となる覚悟です。またこのたびの妹の気持ちはもっとも至極と感心いたしました。」と光秀の心情がつづられており、両親はこれを読んで光秀のいうとおり姉娘を送ることにした。そして夫婦仲が長くつづくことを祈った。

光秀の妻となった姉娘は、夫光秀のこうした心情を忘れず、何事も夫の意に従った。義理をもととして結婚した女房なので、光秀はただ武道の働きに専心した。この妻は、心は勇敢で、むつまじい会話にも戦話ばかりして、庭に砂を集めて城造りの設計までするほどだった。しかもその中身が、理にかなっており、光秀の思い及ばないこともしばしばであった。こうしてこの妻は光秀に武道の油断をさせることなく、世にその名をあげさせたという。

この妻の名前は記されておらず、熙子を想定しているかどうかは不明であるが、西鶴は光秀を約束を守る義理堅い男として描いており、またその妻についても夫を助ける賢さとしっかりした性根を持つ女として描いている。

また次のような話も伝わっている。
明智光秀が困窮していたとき、客を招く機会があった。しかし貧しかったため十分なもてなしが出来ず悩んでいたところ、熙子が自身の髪を切って金に換え、それで酒肴を買いそろえて客をもてなした。光秀はその心がけに大変感心し、二度とこのような思いをさせぬよう立身出世してみせると誓ったという。

いずれの話も光秀と熙子の夫婦仲の睦まじさ、夫光秀に尽くす熙子の心根とそうした熙子の気持ちに答えて励む光秀を描いている。こうした逸話が事実かどうかを確かめる術はないが、江戸時代には広く伝わっていた話のようで、松尾芭蕉は旅中に出会った仲むつまじい夫婦に感激し、「月さびよ 明智が妻の 咄せむ」という一句を詠んでいる。

(滋賀県教育委員会事務局文化財保護課 松下 浩)

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