モデルコース

近江商人のふるさとをめぐる2

日程
1日
エリア
東近江

近江鉄道日野駅の東、大窪集落にあります。静岡県御殿場に出店して大成功した日野商人の名家であり、近江守護佐々木氏の一族を先祖に持つ山中兵右衛門(やまなかひょうえもん)の旧宅を資料館にしたものです。典型的な日野商人本宅の特徴を示す建物であり、館内には初期の行商品や道中具、店頭品をはじめ、家訓などが展示され、日野商人の歴史と商いぶりなどがよくわかります。

0.7km
  • 徒歩9分

江戸時代日野椀に代わって行商の有力商品となり、日野商人を発展に導くものに合薬がありました。その創始者が正野法眼玄三です。
玄三は18才の時日野椀や茶・布を持ち行商に出ましたが母の病気で帰郷、当時京都の名医の診療で母の病気をなおすことができたことから医師を志し、医師になった後は医薬に恵まれない山間辺地の人や日野商人の長旅の道中薬として感応丸を作りました。
 この合薬を日野商人が全国に持ち歩くうち効き目が評判となり、地元日野で薬を製造する人も増え、現在も地場産業として息づいています。
 今もなお「万病感應丸」の大きな看板が掲げられている旧正野薬店内には、薬業の資料展示、喫茶コーナー・観光協会事務所があります。平成30年には薬の包装場を活用した「ギャラリーつつむ」が、また日野米をはじめ日野の食材を使用した「にぎり飯・惣菜 みかく」がオープン。日野町の観光案内や町並みの散策のご休憩などお気軽ご利用ください。

0.1km
  • 徒歩1分
3
桟敷窓のある町並(新町)
0.2km
  • 徒歩2分

日野町の町並みの東端にある浄土宗寺院。奈良時代前期、聖武天皇の勅建と伝えられています。中世にこの地方を統治していた蒲生氏の菩提寺です。安土・桃山時代に現在地に移されました。
 境内はそんなに大きくありませんが、県指定の文化財の本堂や書院などが目立っています。寺宝に、伝恵心(でんえしん)作の観音像があります。また、本堂の天井には、日野町出身の著名な高田敬輔(たかだけいほ)作の巨大な竜が荒れ狂うさまを描いた「雲竜(うんりゅう)」を中心に描かれた縦横11mの水墨画も見事です。信楽院から南西の畑を越えたところの竹藪には、蒲生貞秀(がもうさだひで)廟所があります。

0.5km
  • 徒歩7分

山中正吉家は山中兵右衛門家(現近江日野商人館)の分家で、初代正吉は1809(文化6年)に生まれました。
 初代正吉は、1831(天保2年)に大間村(静岡県富士宮市)で醸造業を始め、その後、造り酒屋として財をなしました。
 同邸は江戸時代末期に建てられたもので、新座敷、洋間等を含めた現在の建物は昭和13年頃に全面改装されました。
 〔座敷棟〕〔新座敷棟〕〔新建〕〔洋間棟〕など15部屋からなる同邸には、大釜付きの5基のおくどさんを構えており、また庭園には仁正寺藩主拝領の梅古木をはじめ、近江の石工小松嘉兵衛(西村嘉兵衛)作の燈篭などが据えられ、商人の暮らしぶり、繁栄を感じることができます。
 この屋敷は、日野商人の代表的な本宅建築「旧山中正吉家住宅」として平成27年3月31日に町の有形文化財に指定されました。日野商人の心が息づく邸宅の保存とともに、日野の歴史や文化に関する資料の保存及び活用、それらを生かした体験や交流、情報発信の場として平成27年4月1日に開館しました。

0.1km
  • 徒歩1分

近江鉄道日野駅の東約3.8km。もとは、綿向山(1110m)の頂上に鎮座していましたが、蒲生氏が城下町を開いてから現在地に移され、湖東の大宮として信仰を集めました。
 昔、山頂から2羽の雁が飛んできて消えたのを見て、村人たちが神が降りてきたと思って、山麓に社を建てたという話が残っており、このことから「二羽雁」が神紋(しんもん)となっています。
 壮大な境内には、拝殿や本殿をはじめ、江戸時代に日野商人が寄進したという立派な石灯籠(いしどうろう)や石橋があります。
本殿右前には、六角形で火袋(かたい)に散蓮華(さんれんげ)を刻む鎌倉時代の石灯籠があります。また、境内の正面右側に「千両松」と書かれた石碑があり、1本の松が植えられています。この松は、江戸時代に遠方で商売して儲けた辻惣兵衛(つじそうべえ)という人が、大金を日野に持ち帰るために、植木鉢の中に小判を隠してその上に松の木を植えました。その結果、無事に日野まで帰れたのでそのお礼に、この境内に松を植えたといわれています。5月2・3日の「日野祭」は、この神社の春の例祭です。
〈重美〉石造灯籠

2.3km
  • 徒歩30分
  • 7分

日野市街北方の丘陵地にあり、創建は古く千年ほどの歴史を持つ黄檗宗のお寺です。
 正明寺は聖徳太子の創建と伝えられており、その昔比叡山延暦寺系の地方大寺として栄えていましたが、戦国時代の戦火を受けて消失しました。江戸時代に入り再興された時は、永源寺の高僧一絲文守大和尚の尽力によって後水尾天皇の勅建寺となり、黄檗禅の中本山としての寺格を備え、数多くの名僧をこのお寺から輩出しました。
 このお寺の本堂は、後水尾天皇から京都御所の清涼殿を下賜され移築されたもので、檜皮葺の屋根の流れは実に美しく、随所に桃山建築の枠を凝らした跡が見られる建築の第一級品で、国の重要文化財に指定されています。
 ご本尊の千手観音立像及び脇侍の毘沙門天と不動明王は鎌倉時代の逸品で、共に国の重要文化財に指定されており、また禅堂の主尊である金剛界の大日如来像も本尊と同時期である鎌倉時代の名品であり、県の文化財に指定されています。
 戦国時代の戦火により焼きつくされ、戦国時代以前のことを探る史料はほとんど残されていませんが、他のお寺や神社の記録により日野谷の中心となる寺院であったことが知られています。
〈重文〉木...